1526年(大永6年)、安房の里見実堯と 玉縄城 の北条氏時(北条氏綱の弟)は鎌倉で激戦を繰り広げました。 玉縄首塚 『新編相模国風土記稿』によると、「1526年(大永6年)、里見実堯が鎌倉に侵攻し、 玉縄城 主北条氏時がこれを戸部川(柏尾川)のほとりで防いだ」とされています。 そして、この合戦によって北条側は、 甘糟氏 をはじめとする35名の戦死者を出しました。 その戦死者が葬られたのが 「玉縄首塚」 だといわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 勝山城址 (千葉県鋸南町) 戦国時代、里見氏は安房国に勢力を張り、三浦半島に進出していた北条氏と対立していました。 支城の勝山城は里見水軍の拠点となっていました。 写真の手前の浜は、 「源頼朝の上陸地」 として知られています。 1526年(大永6年)、里見実堯率いる水軍は 由比ヶ浜 や 材木座 から上陸して北条氏と戦います。 鎌倉市中で、小田原の北条氏綱との激戦が繰り広げられ、ついには 鶴岡八幡宮 も炎上します。 『里見代々記』には、これを「不吉なり」として退却したことが書かれているようです。 一説には、里見氏は、 源義家 を祖とする清和源氏だということです。 📎里見氏の鎌倉来襲 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 玉縄首塚まつり 玉縄首塚 では、毎年8月に「墓前祭」が行われます。