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俣野景久が領した俣野郷の史跡巡り

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俣野景久は、 鎌倉権五郎景政 が開発し伊勢神宮に寄進した 大庭御厨 の下司をしていた 大庭氏 の一族。 俣野郷は、横浜市戸塚区から藤沢市にまたがる地で大庭御厨の一部でした。 景久は、1180年(治承4年)の 石橋山の戦い で、兄大庭景親とともに 源頼朝 に敵対し、 頼朝 の寵臣 佐奈田与一義忠 と戦い長尾定景の助勢を受けて 義忠 を討ち取っています。 俣野観音堂 (横浜市戸塚区俣野町) 景久と兄景親は、 石橋山の戦い では 頼朝 を破りますが、その後、 頼朝 が大軍を率いて鎌倉に入り、富士川の戦いで平家軍を退けると逃亡します。 兄景親は、河村郷に逃れますが降参し、 上総広常 に預けられた後、片瀬で処刑されました。 (参考: 明暗が分かれた大庭兄弟(景義と景親)~石橋山の戦い~ ) 一方、景久は逃亡を続け平家軍と合流しますが、加賀国で最期を遂げたといわれています。 俣野観音堂 に安置されている十一面観音像は、死を覚った景久が故郷俣野郷へ送ったものと伝わっています。 十一面観音像 (戸塚区役所ホームページより) 俣野観音堂 の裏には境川が流れ、田園地帯が広がっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 俣野観音堂 から境川を渡ると藤沢市西俣野です。 左馬神社 源義朝 を祀る神社といわれています(参考: 鯖神社 (湘南台))。 源義朝 を祀る神社が何故ここにあるのかは不明ですが、 大庭氏 は、1156年(保元元年)の 保元の乱 までは 義朝 に従っていました。 1159年(平治元年)の 平治の乱 以降に平家に従っていたといいます。 (参考:湘南台にある鯖神社) 今田鯖神社 境川流域には「サバ神社」という名の神社が12社あるという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 花應院 花應院 は、鎌倉公方 足利持氏 に対して謀叛を起こした小栗満重(小栗判官)の伝説が残されている寺です(参考: 遊行寺 )。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 瞽女淵(ごぜぶち)の碑と 水難除碑(土手番さま) 西俣野付近を流れる境川は、曲がりくねっていて淵が出来やすい場所だったといいます。 「瞽女」(ごぜ)とは、盲目の芸人のことで、延宝年間(1673~1681年)、一人の瞽女がここで溺死してしまいます

初めての論功行賞と投降者の処分~富士川の戦い~

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富士川の戦い 後の1180年(治承4年)10月23日、 源頼朝 は、相模国府で挙兵から初めての論功行賞を行いました。 北条時政 、 武田信義 、安田義定、 千葉常胤 、 三浦義澄 、 上総広常 、 和田義盛 、 土肥実平 、 安達盛長 、土屋宗遠、 岡崎義実 、工藤親光、 佐々木定綱 、 佐々木経高 、 佐々木盛綱 、 佐々木高綱 、工藤景光、 天野遠景 、 大庭景義 、宇佐美祐茂、市川行房、加藤景員、宇佐美実政、大見家秀、 飯田家義 以下の者にこれまでの領地を安堵し、あるいは新しい領地を与えたりしています。 また、 三浦義澄 を「三浦介」に任命し、 下河辺行平 を「下河辺庄司」に任命します。 そして・・・投降してきた者は・・・ 大庭景親 は 上総広常 に、 長尾為宗は 岡崎義実 に、 長尾定景 は 三浦義澄 に預けられています。 また、 河村義秀 は河村郷を取り上げられ、身柄は 大庭景義 に、 山内経俊 は山内庄を取り上げられ、身柄は 土肥実平 に預けられました。 その後・・・ 大庭景親 は片瀬で斬首。 (参考: 明暗が分かれた大庭兄弟(景義と景親) ) 岡崎義実 に処分を任されていた長尾定景は、義実の申し出により許されています。 (参考: 法華経を読み続けた長尾定景 ) 河村義秀 は、斬首を命じられますが、のちに 流鏑馬 で妙技を披露し許されています。 (参考: 流鏑馬と河村秀義の逸話 ) 山内経俊 は、母の哀訴によって助けられました。 (参考: 母の哀訴に命を救われた山内首藤経俊 ) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

ドラゴンボートレース・・・湘南江の島秋まつり

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毎年、 江ノ島 の「天女と五頭龍伝説」にちなんで開催される「ドラゴンボートレース」。 (参考: 龍恋の鐘~恋人の丘:江の島~ ) 境川の河口では、 龍に模した10人乗りのボートが競い合っていました。 江ノ島 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉神楽・・・鶴岡八幡宮:鎌倉郷土芸能大会

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鶴岡八幡宮 では、「鎌倉郷土芸能大会」が催されていました。 「鎌倉神楽」は、「湯立神楽」又は「湯花神楽」とも呼ばる鎌倉の伝統的な民俗文化。 釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を撒いて神事が行われます。 煮えたぎった湯の中に枝葉をくぐらせ、湯が撒かれます。 この時の湯花の加減で吉凶が占われるといいます。撒かれた湯がかかると健康で暮らせるそうです。 11月8日に行われる 丸山稲荷社 の 「火焚き祭」 でも「鎌倉神楽」を見ることができます。 最後に「天狗」と「もどき」が楽しませてくれました。 もどきの投げる”鼻くそ”をつけた「・・・」にご利益があるということです。 かつて「鎌倉神楽」は、多くの神社で奉納されていたそうですが、 丸山稲荷社 の 「火焚き祭」 、 材木座海岸 の 「潮神楽」 、 「御霊神社例祭」 などとかなり少なくなりました。 明治の頃まで世襲されていたといいますが、現在では、その伝統を神職が受け継ぎ、鎌倉市の無形民俗文化財に指定されています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 境内では、各地域の囃子保存会の皆さんが「お囃子」を披露していました。 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

不動明王像・愛染明王像の特別公開~鎌倉:浄光明寺~

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浄光明寺 では、本尊 「阿弥陀三尊像」 が東京国立博物館で開催されている「法然と親鸞ゆかりの名宝」に出展されているため、代わりに普段拝観することのできない、「不動明王坐像」と「愛染明王坐像」が特別公開されています。 平成23年10月20日から12月9日まで 拝観:木・土・日・祝の10:00~12:00 13:00~16:00(雨天中止) 収蔵庫では、「不動明王坐像」・「愛染明王坐像」と一緒に通称「矢拾地蔵」で知られる「地蔵菩薩立像」を間近に見ることができます。 不動堂 不動明王坐像 は、通常は不動堂に安置され大晦日のみに公開されています。 10世紀に活躍した浄蔵貴所という僧が、傾いた 八坂の五重塔 を法力で元に戻した際、祈祷の本尊だったのがこの不動明王像だといわれ、 文覚 が鎌倉に持ってきたのだといいます。 そのため「八坂不動」と呼ばれています。 その他、 文覚 が以仁王の令旨をこの像の中に隠して運んだという伝説も残されているようです。 ただ、様式的には、南北朝から室町時代のものと考えられるようです。 (浄光明寺華蔵院旧蔵 鎌倉市指定文化財) 本堂 愛染明王坐像 は、京都泉涌寺の第六世 願行憲静 が、 元寇(蒙古襲来) 調伏の祈祷の際に本尊として製作したものと伝わっています。 願行 は、 大山寺 の国宝「鉄造不動明王像」を鋳造した人物です。 (※ 覚園寺 には、試しに造ったと伝えられている「試みの不動」があります。) ただ、この愛染明王像は、様式的には南北朝時代のものと考えられるようです。 付属の銘札には、1753年(宝暦3年)に水戸家当主の武運長久・息災延命のための修理が行われた旨が記されているそうです。 (浄光明寺慈恩院旧蔵 鎌倉市指定文化財) 収蔵庫 地蔵菩薩立像 は、 足利尊氏 の弟 直義 の守り本尊といわれ、 中先代の乱 の折、矢が尽きてしまった 直義 に矢を拾い集めてくれたのがこの地蔵菩薩だったと伝えられています。 そのため、「矢拾地蔵」と呼ばれています。 鎌倉時代の作といわれ、本尊 阿弥陀三尊像 とともに収蔵庫に安置されています。 (浄光明寺慈恩院旧蔵 神奈川県指定文化財) 仏殿 収蔵庫前の仏