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鎌倉夏景色

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ハンゲショウ ( 光則寺 ) 七夕祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/tanabata.htm 三門梶原施餓鬼会 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/kajiwarasegaki.htm 石上神社例祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/isigami-reisai.htm 天王祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/tennosai.htm 光明寺 と 鶴岡八幡宮 の ハス 夏の海 サルスベリ ( 本覚寺 ) 妙本寺 と 九品寺 の ノウゼンカズラ 地蔵祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/jizosai.htm ぼんぼり祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/bonborimaturi.htm 四万六千日 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/simanrokusen.htm 黒地蔵縁日 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/kurojizo.htm 極楽寺 の サルスベリ と 瑞泉寺 の湧き水 閻魔縁日 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/enma.htm 開山忌(建長寺) https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/kaisanki-kentyoji.htm 玉縄首塚まつり https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/tamanawa.htm 瑞泉寺 の フヨウ と 長谷寺 の和み地蔵  妙隆寺 の フヨウ と 長谷寺 の キキョウ   鎌倉大仏 https://www.yoritomo

流鏑馬~鶴岡八幡宮例大祭~

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鶴岡八幡宮 の 例大祭 は、9月14日、15日、16日の3日間行われます。 14日早朝には、 由比ヶ浜海岸 で 「浜降式」 が、15日には、例大祭の後、 「神幸祭」 が行われます。 そして、最終日の16日には、 流鏑馬 が奉納されます。 鶴岡八幡宮 の 例大祭 は、1187年(文治3年)8月15日、 源頼朝 が催した放生会がそのはじまりといわれています。 そして、放生会では流鏑馬も奉納されました(参考: 鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬 )。 現在は、9月16日午後1時から 舞殿 で儀式が行われた後、射手が騎乗して参道中央から 流鏑馬馬場 に入ります。一の射手が「流鏑馬始め」の命令を受けると 流鏑馬 が始まります。 弓馬術礼法小笠原流宗家の皆さんによる奉納です。 流鏑馬 の装束は、「揚装束」(あげしょうぞく)ともいわれ、 鎌倉時代の武士の狩装束です。 流鏑馬馬場 両側にある柵は「埒」(らち)と呼ばれます。 「埒もない」という言葉がありますが、 「とりとめもない」というような意味で使われます。 一説には、「埒(柵)がなく収まりがつかない様子」 がその語源だともいいます。 埒 (らち) よく見ると柵の高さが違うのがわかります。 馬が走る方向の左側が高くなっていて「雄埒」、 右側はやや低く「雌埒」と呼ばれるそうです。 雄埒の高さは三尺五寸(1m06㎝) 雌埒の高さは二尺七寸(82㎝) 埒の幅は弓一丈(七尺五寸(2m27㎝)) 鶴岡八幡宮 の 流鏑馬 は、直線百四十間(254.54m)の 流鏑馬馬場 に、 一の的、二の的、三の的を設けられます。 この的を馬を走らせ、気勢の声をあげながら、次々に射ていきます。 馬場元から一の的までは二十間(約36.36m) 一の的から二の的までは四十間(約72.72m) 二の的から三の的までは四十三間(約78.18m) 的は一尺八寸(55㎝)角の正方形の杉板で、 青竹に挟まれます。 高さは六尺(1m82㎝)。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (流鏑馬に残された逸話) ★ 熊谷直実   ★ 諏訪盛澄   ★ 河村義秀 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬 ・・・・・・・

鎌倉幕府四代将軍~藤原頼経~

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藤原頼経 は、 源頼朝 の同母妹、 坊門姫 の曾孫にあたります。 1219年(建保7年)1月27日、三代将軍 源実朝 が暗殺されると、次期将軍に誰を据えるかが問題となります。 北条氏は、次期将軍には親王を将軍にしようと考えていました。 しかし、この願いは、後鳥羽上皇に断れます。 結局、1219年(承久元年)7月、九条道家の子三寅(のちの 頼経 )が鎌倉へ下向しました。 頼経 は、1226年(嘉禄2年)、将軍宣下を受け、第四代将軍となります( 摂家将軍 )。 そして、1230年(寛喜2年)には、 頼朝 の血を引く竹御所(頼家の娘)と結婚しています。 (参考: 源頼朝の血筋断絶・・・竹御所の死:妙本寺 ) 宇都宮稲荷 1225年(嘉禄元年)、幕府は 大倉 から 宇津宮辻子 に移転されます。 さらに11年後の1236年(嘉禎2年)には、 若宮大路 へ移転しています。 (宇都宮稲荷は、御所内にあった社だったといいます。)。 明王院 明王院 は、1235年(嘉禎元年)、 頼経 が幕府の鬼門除けとして建立したと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しかし、 北条経時 が執権になると・・・ 1244年(寛元2年)、反 得宗 勢力に接近していた 頼経 は、将軍職を奪われてしまします。 (頼経のあとは、子頼嗣とが将軍となりました。) さらに、 北条時頼 が執権になると・・・ 1246年(寛元4年)、名越光時とともに 時頼 打倒を企てた 頼経 は、鎌倉を追放され、京都に送還されました( 宮騒動 )。 そして、1256年(康元元年)8月11日に亡くなります。 39歳でした。 同年、子頼嗣も亡くなっています。 頼嗣は、1252年(建長4年)に将軍職を廃され、京都に送還されていました。 新しい将軍には、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が迎えられています。 以後、幕府は 親王将軍 を迎えることとなります。 東福寺 藤原頼経は、藤原(九条)道家の子。 京都五山四位の 東福寺 は九条家の菩提寺。 鎌倉との繋がりを求めて。

不易の法~北条政子の御教書と御成敗式目~

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『吾妻鏡』によると・・・ 伊豆国狩野荘内牧郷の地頭職をめぐって、加藤景義が兄景朝を訴えました。 景義の主張は、 「兄景朝は、亡父景廉から義絶され相続権がないにもかかわらず、牧郷を押領している」 というものでした。 一方、景朝は、 「牧郷は、将来景朝が知行するようにという北条政子の御教書がある」 と主張します。 「御成敗式目」の7条には・・・ 「源頼朝・頼家・実朝の源氏三代及び北条政子の時代に御家人に与えられた領地は、その権利を奪われることはない」 と規定されています(不易の法)。 そうすると・・・ 争点は、 「義絶されて相続権がない」 ということと、 「北条政子の御教書」 のどちらを優先すべきかということになります。 そして、1235年(文暦2年)8月21日、裁決が下ります。 執権 北条泰時 が「北条政子の御教書」を棄却するのは恐れ多いと主張したため、景朝の勝訴が決定しました。 御成敗式目 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ