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収玄寺の桜と桃

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収玄寺 は小さな寺ですが、行く度ごとに景色の変わる花の寺です。 鎌倉のモモ(桃) http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/momo.htm 収玄寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136shugenji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

桃の季節の安国論寺

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山門の向こう側のゲンカイツツジきれいです。 本堂横の桃 本堂前の 「源平枝垂れ」 フジ棚の横のシャクナゲ 伝説の 「妙法桜」 。満開までもう少し・・・ 安国論寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page126ankokuronji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

伝説の静桜~鶴岡八幡宮~

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鶴岡八幡宮 の 流鏑馬馬場 (東の鳥居付近)には、福島県郡山市の 静桜 が植樹されています。 写真は、今年の4月13日のものです。まだ小さい木ですが、たくさんの花を咲かせていました。 静桜 福島県郡山市は、静御前の聖地の一つです。 静御前は京の白拍子で、 源義経 の愛妾として知られています。 義経 が兄 頼朝 と対立して都を落ちるとそれに同行しました。 しかし、逃亡途中の吉野で 義経 と別れます。 その後、捕らえられ、1186年(文治2年)3月1日、母磯禅師とともに鎌倉に送られてきました。 頼朝 は 義経 の行方を尋問しますが、静は拒否し続けたといいます。 静の舞 4月8日、静は 頼朝 に命じられて「舞」を披露することになります。 静は、今様を歌いながら舞いました。 よし野山みねのしら雪ふみ分けていりにし人のあとぞこいしき しづやしづしづのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな その素晴らしさに参列した者はみな感嘆したといいます。 頼朝 は、 義経 を慕う歌に激怒したということですが、妻 政子 になだめられたと伝わっています。 (参考: 静の舞~鶴岡八幡宮~ ) 静は鎌倉で 義経 の子を出産しています。 しかし、生まれたのが男子だったため 由比ヶ浜 に捨てられてしまいます。 (参考: 母と子の悲しい運命・・・静御前 ) 9月16日、静は傷心のまま鎌倉を去ったと伝えられています。 その後の静の消息は定かではありませんが、全国各地に静御前の伝説が残されています。 福島県郡山市には静御前堂という堂があります。 静は、奥州に落ちた 義経 を慕ってこの地まで辿りつきますが、会うことは叶わず、池に身を投げて短い生涯を遂げたと伝えられています。 静御前堂の前には、「義経桜」と「静桜」が植えられ、裏手には、静の霊を鎮めるために植えられたという「さいはら桜」があるそうです。 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

安国論寺の枝垂れ桃2011

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安国論寺 の本堂前の源平枝垂れ(シダレモモ)です。 一株から紅白の花が咲きます。 本堂の左側にも大きな桃の木があります。 こちらも紅白咲き分けの桃です。 鎌倉のモモ(桃) http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/momo.htm 安国論寺の源平枝垂れ桃 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/ankokuronji-genpei-momo.htm 安国論寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page126ankokuronji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉の桜~教恩寺・別願寺・安養院~

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教恩寺(大町) http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043kyoonji.htm 山門背後を横切って咲く桜です。 別願寺(大町) http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page126betuganji.htm 安養院(大町) http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page126anyoin.htm 鎌倉:桜の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sakura-kamakura.htm 伝説の桜~鎌倉~ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sakura-densetu.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

光則寺のカイドウ2011

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鎌倉市の天然記念物に指定されている 光則寺 のカイドウが見頃を迎えています。 鎌倉三大カイドウ の一つに数えられる古木です。 光則寺 には数本のカイドウが植えられています。 中でも本堂前のカイドウは、樹齢200年を超えるともいわれ、 鎌倉市の天然記念物に指定されています。 光則寺 には、日蓮宗信者であった宮沢賢治の詩碑があります。 有名な 「雨ニモマケズ」 という詩が刻まれています。 その詩碑の前にもカイドウが植えられています。 日蓮 の弟子日朗が幽閉されたという土牢からもきれいに見えます。 光則寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136kosokuji.htm 鎌倉三大カイドウ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/kaido.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

頼朝公墓前祭~鎌倉~

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「頼朝公墓前祭」 は、毎年4月13日、「源頼朝公報恩会」の主催により、鎌倉に武家政権を樹立した 源頼朝 の遺徳を偲んで行われる祭事です。 源頼朝 の墓前にて、 鶴岡八幡宮 の神職が出席して執り行われます。 大倉幕府跡碑 1180年(治承4年)、 源頼朝 は源氏再興の挙兵を果たします。 当時、伊豆国の 蛭ヶ小島 に流されていた 頼朝 は、まず、伊豆国の目代の山木兼隆を討ち、相模国へ進軍します。 しかし、 石橋山の戦い で 大庭景親 らに敗れ、 真鶴 から海路安房へと渡りました。 安房で体勢を整えた 頼朝 は、その年の10月6日、大軍を率いて源氏ゆかりの地である鎌倉に入ります。 (参考: 源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃 ) そして、大倉の地に御所を構えます。これが鎌倉幕府です。 当初の鎌倉幕府は大倉の地にあったため 「大倉幕府」 と呼ばれ、現在の清泉小学校一帯がその跡地です。 (参考: 源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~ ) 今年(平成23年)は、桜の開花が遅かったので、 源頼朝墓 へと通じる道の桜が満開です。 頼朝 の墓は、 大倉幕府跡 北側の大倉山の中腹に建てられています。 源頼朝墓 への石段 この石段の上に 源頼朝 の墓があります。 頼朝 は、1198年(建久9年)12月27日、御家人稲毛重成の亡き妻の供養のため、相模川に架けた橋の開通式に出席しますが、その帰りに落馬してしまいます。 それが原因となって、翌年1月13日に亡くなったと伝えられています。 (参考: 旧相模川橋脚 ) 頼朝公墓祭 祭事は、 頼朝 の命日にちなんで4月13日に執り行われます。 現在の 頼朝 の墓は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、東隣の山の中腹には島津氏の祖 島津忠久の墓 もあります。 忠久は、 頼朝 の子とも伝えられ、祭事には島津家御当主も出席しています。 1189年(文治5年)、 頼朝 は、ここに聖観音を本尊とした「持仏堂」を建てました。 頼朝 は、その「持仏堂」に葬られたと伝えられています。 のちに「持仏堂」が「法華堂」と称されるようになり、現在は 法華堂跡 として国の指定史跡となっています。