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佛日庵のハクモクレン~円覚寺~

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佛日庵のハクモクレン は、中国の小説家、魯迅より贈られた株として知られています。 満開までにはもう少し・・・。 1 鎌倉のハクモクレン http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/hakumokuren.htm 佛日庵のハクモクレン http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/hakumokuren-butunitian.htm 佛日庵 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/tera-emgakutatyyu-butunitian.htm 円覚寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138engakuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

頼朝に天下を語った豊臣秀吉~白旗神社~

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1590年(天正18年)、 小田原城 を落とし、後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は 鶴岡八幡宮 を参詣しています。 その時に源頼朝像と対面し天下を語ったことは有名な話です。 ~『関八州古戦録』~ 秀吉公ハ此次ニテ鎌倉ニ一見有ヘシトテ、 相州藤沢ノ駅ヨリ駕ヲ枉ラレ鶴ヶ岡ノ八幡宮ヘ参詣アリ。 拝礼終テ右大将家ノ廟所ヲ尋ラレケレハ、 白旗ノ社ノヨシ申シケル故則詣テ賜ヒ戸張ヲ開カセ頼朝卿ノ影像ヲ熟々ト詠メテ、 凡日本広シト云共微賎ヨリ起テ天下一統ニ切敷四海ヲ掌ニ握レル者ハ吾分ト秀吉ノミナリ、 去ナカラ吾辺ハ多田満仲ノ後胤ニテ王氏ヲ出テ遠カラス、 其上先祖伊予守頼義陸奥守義家相継テ関東ノ守護タリ故、 国侍ノ馴染モ多ク被官ノ筋目有シヲ以テ、 流人ノ身成ト云共義兵ヲ挙ラルゝヤ否、 旧キ好ミヲ追テ東国武士属従ヒ速成ノ大功ヲ建テラレタリ、 我等ハ氏モ系図モナキ匹夫ヨリ出テ、 ケ様ニ世上ヲ靡スナレハ、 吾分ヨリ秀吉カ創業増タル事明白ナリ、 去ハイツレニモ吾辺ト我等トハ天下友達ト云ツヘシ、 トテ影像ノ肩先ヲホトホトト敲テカラカラト笑ヒ立出賜ヒシ。 豊臣秀吉が対面し肩を叩いたという像は、 現在、東京国立博物館に所蔵されている「木造伝源頼朝坐像」といわれています。 白旗神社 https://www.yoritomo-japan.com/page041sirahata-hatiman.htm 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

鶴岡八幡宮の模型~鶴岡文庫~

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小田原北条氏 を滅ぼした豊臣秀吉は奥州へと向かいます。 そして、その途中に 鶴岡八幡宮 を参詣しています。 鶴岡文庫の模型 秀吉は、1591年(天正19年)、 「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」(修理の設計図)を作成させ、 徳川家康に修理を命じています。 鶴岡文庫に飾られている模型は、 秀吉の「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」をもとに作られています。 下宮は、回廊で囲まれていました。 下宮の東側には、経蔵、千体堂、御本地堂、鐘楼が配置され、 西側には、五大堂、北斗堂が配置されています。 鶴岡八幡宮修営目論見絵図 豊臣秀吉が描かせた絵図です。 1591年(天正19年)5月14日、 秀吉の奉行、増田長盛、山中長俊、片桐直倫が作成しました。 この絵図に描かれている配置が、 北条氏綱の天文再興時の 鶴岡八幡宮 の配置だったと考えられています。 源頼朝 によって設けられた 供僧二十五坊 は、室町時代には七坊にまで減少していましたが、徳川家康が 鶴岡八幡宮 の修理をはじめると、供僧坊も五院が復興されて十二院となっています。 鶴岡文庫

浄智寺の布袋尊~布袋和尚と弥勒菩薩~

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浄智寺 のやぐらの中に安置された石造の布袋尊は、 鎌倉・江の島七福神 の一つに数えられています。 布袋尊のお腹を撫でると元気がもらえるそうです。 七福神の布袋尊は、中国禅僧の布袋和尚が神格化したものといわれています。 布袋和尚は実在の人物といわれ、弥勒菩薩の化身ともいわれてきました。 浄智寺 の本尊は釈迦・阿弥陀・弥勒の三世仏です( 浄智寺曇華殿 )。 そして、 鎌倉十三仏 (弥勒菩薩)の札所でもあります。 鎌倉・江の島七福神 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page133.html 鎌倉十三仏 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/zyusanbutu.htm 浄智寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138jyotiji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

辻薬師堂~鎌倉:大町~

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鎌倉の大町にある薬師堂。 日蓮宗の 本興寺 の門前にある小さなお堂です。 藤原鎌足の四代目の子孫染屋時忠が建てた長善寺の薬師堂だったといわれています。 堂内には、薬師三尊、不動明王、十二神将のうち二体が安置されています。 (現在鎌倉国宝館に安置されている薬師三尊及び十二神将立像は、この薬師堂に安置されていたものです。) 辻の薬師堂 https://www.yoritomo-japan.com/page135yakusido.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

英勝寺の仏殿

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英勝寺 の仏殿は、1636年(寛永13年)に建立されたといわれ、神奈川県の重要文化財に指定されている建物です。 禅宗様式の面影を残す仏殿(宝珠殿)です。 本尊は、徳川第三代将軍家光から寄進されたという阿弥陀三尊像(伝 運慶 作)。 円覚寺舎利殿 (旧 太平寺 仏殿)や、 東慶寺の仏殿 (現 三渓園 )を参考にしているともいわれています。 しかし、両仏殿に見られるような屋根の反り上がりは見られません。 ~蟇股(かえるまた)に彫られた干支~ 英勝寺 https://www.yoritomo-japan.com/page137eishoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

只管打坐~道元鎌倉御行化顕彰碑~

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鶴岡八幡宮 の西、馬場小路を小袋坂へと向かう途中にある我が国曹洞禅の開祖道元の顕彰碑です。 只管打坐 (しかんたざ) 「ただひたすらに坐禅すること。」という意味なのだそうです。 道元 道元の素性ははっきりとしないようですが、 父が源通親、母が藤原基房の娘といわれています。 1214年(建保2年)比叡山で出家。 1217年(建保5年)建仁寺の明全(栄西の弟子)に師事します。 そして、1223年(貞応2年)、明全とともに宋に渡りました。 1228年(安貞2年)に帰国、我が国 曹洞宗 の開祖となりました。 1247年(宝治元年)、道元は越前永平寺を出て、鎌倉教化に出掛けます。 五代執権 北条時頼 の要請があってのことといわれています。 道元としては、時の最高権力者を教化することで「日本の政治を変える」という思いがあったのかもしれません。 道元は半年間、鎌倉に滞在し懸命に法を説きますが思うような教化はできず、1248年(宝治2年)、 時頼 が寺を建て開山に迎えようとしたのを断って永平寺へ帰っていきました。 のちに 時頼 が寺への寄進を申し出ますが、それも断ったといいます。 参考: 道元の鎌倉教化 ~道元が時頼に与えた歌といわれています・・・~ (教外別伝) あら磯の波もえよせぬ高岩にかきも付すべきのりならばこそ (不立文字) いい捨てしその言の葉の外なれば筆にも跡をとどめざりけり (本来面目) 春は花夏ほととぎす秋の月冬雪さえて冷しかりけり (即心即仏) おし鳥やかもめともまた見えわかぬ立てる波間にうき沈むかな (応無所住、而生其心) 水鳥のゆくもかえるも跡たえてされども道はわすれざりけり (尽十方界真実人体) 世の中にまことの人やなかるらんかぎりも見えぬ大空の色 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 道元禅師修行の遺蹟 (京都:建仁寺) 道元鎌倉御行化顕彰碑 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page041dogen.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆