1012年(寛弘9年)、藤原道長は三条天皇に入内していた次女の妍子を中宮としましす。
一方、道長と不和だった三条天皇は、妍子より先に入内して第一皇子の敦明親王を生んでいた娍子を皇后宮としました。
これにより、絶大な権力を誇っていた道長と天皇親政を目指す三条天皇との対立が決定的となります。
娍子の立后の儀式の日・・・
道長は
「同日は中宮妍子の参内の日である」
として出席せず、多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に行ってしまったのだとか。
道長の嫌がらせによって、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資・藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったらしい。
📎皇后宮娍子の立后と中宮妍子の参内~三条天皇と藤原道長の対立~
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