三条天皇と藤原道長。
権力を争ったこの二人は、それぞれに夜空に浮かんだ美しい月を見ました。
しかし、その眺め方と思った事は対照的でした。
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三条天皇は冷泉天皇の第二皇子。
母は藤原兼家の長女・藤原超子(藤原道長の姉)。
東宮(皇太子)の時代が長く、1011年(寛弘8年)に一条天皇から譲位されたときは30代の半ば。
この時代は摂関政治の最盛期。
天皇が朝廷の政務に要望をしないことが前提で、幼い天皇が望まれていた時代。
しかし、三条天皇は人生の経験を積んで世の中の道理が最もよくわかる年ごろ。
絶大な権力を誇っていた外叔父の藤原道長と対立することに。
1014年(長和3年)、三条天皇は眼病を患いますが、自分の娘・彰子が生んだ敦成親王を即位させたい道長は、それを理由に退位を迫ります。
内裏の焼亡も重なって道長との権力闘争に疲れ果てた三条天皇は、1016年(長和5年)、美貌だったという皇后宮・藤原娍子が生んだ敦明親王を皇太子とすることを条件に譲位。
退位する直前に詠んだのが
心にも
あらでうき世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
「心ならずもつらい現世で生き長らえているならば・・・
さぞかしここで眺めた夜更けの月が恋しく思いだされることであろう」
「死んでしまいたい」と思いながら詠んだ歌のようですが、三条天皇は翌年に崩御。
一方、道長は・・・
三条天皇の譲位により、外孫で8歳の後一条天皇が誕生すると、摂政となって権勢を奮い、敦明親王に皇太子を辞退させ、後一条天皇の弟・敦良親王を皇太子とすることに成功。
そして、1018年(寛仁2年)、四女の威子が後一条天皇の中宮(皇后)となると・・・
三后のすべてを我が娘で占めるという前代未聞の偉業を達成(太皇太后は長女の彰子・皇太后は次女の妍子)。
詠んだ歌が
この世をば
わが世とぞ思ふ
望月の
かけたることも
なしと思へば
「この世で自分の思うようにならないものはない。
満月に欠けるもののないように・・・」
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