別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年9月18日木曜日

泰山府君と福禄寿~これを知って御霊神社の面掛行列!~




人間の生死・寿命・官位および死後の審判を司るとされる中国道教の神・泰山府君。

日本では、慈覚大師の遺言により赤山禅院が創建され、延命・福徳の神:赤山大明神として祀られました。


泰山府君は、陰陽道で最高神とされ、安倍晴明は泰山府君祭によって重病の三井寺の僧侶を救ったのだといいます。

📎安倍晴明の占いと師弟を救った三井寺の泣不動


後鳥羽院にとりついた白面金毛九尾の狐の正体を見破ったのは、泰山府君祭を行った安倍泰成でした。

📎鎌倉地蔵の伝説


そして、泰山府君を人格化したのが幸福・高禄・長寿の徳を与えられた福禄寿神。

赤山禅院の本尊・赤山大明神は、天では福禄寿神・地では泰山府君として、万物の命運を司るとされています。


室町時代になると七福神信仰が盛んになり、福禄寿も七人の福神の一人に数えられるようになります。

鎌倉では、鶴岡八幡宮祭礼行列山ノ内八雲神社祭礼行列円覚寺弁財天祭礼行列の面掛行列にも参加していました。

面掛行列は、現在では坂ノ下御霊神社でのみ行われていますが、御霊神社の面掛行列にも福禄寿が参加します。

御霊神社の面掛行列は9月18日14:30頃から。



面掛行列

御霊神社例大祭


御霊神社








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


七福神信仰の歴史

都七福神

鎌倉江の島七福神


運慶の南都復興と興福寺北円堂~運慶 祈りの空間~


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2025年9月17日水曜日

鎌倉坂ノ下 御霊神社の例大祭 9月18日~鎌倉神楽・神幸祭・面掛行列~



坂ノ下の御霊神社例大祭は9月18日。

祭神の鎌倉権五郎景政の命日に行われます。


12:00~


13:00~


14:30~


面掛行列

神幸祭では、神奈川県の無形民俗文化財に指定されている面掛行列を観ることができます。


力餅家

御霊神社入口の力餅家さんでは、面掛行列の面を模した「福面まんじゅう」が販売されています。



御霊神社例大祭

面掛行列


面掛行列の阿亀

泰山府君と福禄寿


御霊神社







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円覚寺開山忌

施設公開

お十夜


運慶の南都復興と興福寺北円堂~運慶 祈りの空間~


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2025年9月16日火曜日

鎌倉武士が鍛錬を重ねた馬上の弓術:流鏑馬神事




流鏑馬は、疾走する馬上から鏑矢を放ち的を射る弓術の一つ。

古くは「騎射」と呼ばれ、京都の葵祭(賀茂祭)の前儀として行われる流鏑馬も明治初年までは「騎射」と呼ばれていました。

藤原宗忠の日記『中右記』には「流鏑馬」の記事が登場し、1096年(永長元年)に鳥羽上皇が糺の森の流鏑馬を観覧した記録が残されています。

このころの流鏑馬は朝廷の遊興として行われていたようですが、武家が台頭してくると祭礼行事の中核に位置付けられ、神事として発展していきます。

そして、武家社会の確立に大きな役割を果たしていきました。


源頼朝は、1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮で放生会と執り行います。

その放生会の中核に取り込んだのが流鏑馬神事

頼朝は前年の8月15日、西行から弓馬について学んでいました。

📎西行と流鏑馬


流鏑馬は、頼朝にとっては軍事力を結集させるために必要なイベントだったのかもしれません。

そして、御家人たちにとっては、在所の祭礼などで奉納して磨き上げてきた射芸を披露(力を誇示)する機会となりました。

1187年(文治3年)8月15日の流鏑馬では、弓の名手といわれた熊谷直実が射手ではなく的立て役を命ぜられてしまいます。

これに腹を立てた直実は役を拒否して所領を減封されたという逸話が残されています。

📎熊谷直実の逸話

その一方で、処刑されるはずの諏訪盛澄が妙技を披露して罪を許されれうという珍事も。

📎諏訪盛澄の逸話

1190年(建久元年)の流鏑馬では河村義秀も妙技を披露して罪を許されています。

📎河村義秀の逸話


頼朝鶴岡八幡宮で流鏑馬を行ったことで、流鏑馬は各地に広まっていきますが、北条氏の時代になると、摂家将軍・親王将軍を迎えるようになり、流鏑馬が権力誇示の行事へと変化し、放生会供奉を辞退する御家人も増え、次第に流鏑馬は衰退していったのだといいます。

さらに、鎌倉幕府の衰退とともにすたれ、南北朝期には行われなくなりました。

「何とかしないと」思ったのが江戸幕府6代将軍徳川吉宗。

吉宗が小笠原常春に命じて流鏑馬を復興させたことで、再び流鏑馬が各地で行われるようになったのだといいます。




小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮









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御霊神社例大祭

面掛行列


お十夜


運慶の南都復興と興福寺北円堂~運慶 祈りの空間~


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2025年9月15日月曜日

小笠原流流鏑馬~鶴岡八幡宮例大祭 2025/09/16~


小笠原流・流鏑馬


鶴岡八幡宮流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日に源頼朝が催した放生会で奉納されたことに始まるといわれています。

毎年9月の例大祭では小笠原流流鏑馬が奉仕されていますが、小笠原流流鏑馬は小笠原氏の祖小笠原長清からの受け継がれた伝統技術。

小笠原氏は甲斐源氏。

長清は、源頼朝の弓馬礼法の師範となったと伝えられ、従兄弟の武田信光・信濃国の海野幸氏望月重隆とともに弓馬四天王と称されました。


鶴岡八幡宮例大祭の流鏑馬は・・・

9月16日13:00から。




小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


御霊神社例大祭

面掛行列


お十夜


運慶の南都復興と興福寺北円堂~運慶 祈りの空間~


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供養の場から祈りの空間へ~運慶が魂を込めた七体の仏像~




1180年(治承4年)、平重衡の南都焼討によって焼失した興福寺

北円堂は、それから30年後に再建された。

復興造仏を担当したのは運慶

1212年(建暦2年)、運慶一門が造立したのは、弥勒如来及び両脇侍像、四天王像、無著・世親像だった。

この内、北円堂に残されているのは弥勒如来と無著・世親像。

両脇侍像は失われたが、四天王像は中金堂のものが運慶一門によるものと考えられている。


北円堂興福寺を創建した藤原不比等の一周忌に創建された仏堂。

供養のための仏堂だが、運慶の諸像は「祈りの空間」へと変えた。

弥勒如来は、釈迦の入滅から56億7千万年後に現れるという未来の仏。

無著(むじゃく)・世親(せしん)は、本来の僧侶の姿を現したもの。

四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)は東・南・西・北の守護神。



運慶


興福寺北円堂


東京国立博物館で開催されている「運慶 祈りの空間」では七体の仏像が勢揃い!

運慶 祈りの空間


運慶願経


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2025年9月14日日曜日

9月15日の神幸祭で渡御する鶴岡八幡宮の神輿~鶴岡八幡宮例大祭~




鶴岡八幡宮神輿(本宮三基、若宮四基)は、桃山期から江戸初期頃の形態的特徴をもったもので神奈川県の有形民俗文化財に指定されています。

鶴岡八幡宮本宮神輿

例大祭で渡御するのは本宮神輿三基。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鳳凰の神輿は応神天皇

応神天皇は
鶴岡八幡宮本宮の主祭神


宝珠の神輿は比売神

比売神は、
応神天皇の妻や娘、
あるいは関係の深い女神


菊の神輿は神功皇后

神功皇后は応神天皇の母


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



例大祭は9月15日の午前10時に執行されます。

神幸祭は午後1時から。

本宮三基が二の鳥居まで渡御します。



鶴岡八幡宮



鶴岡八幡宮例大祭
9月14日~16日


鶴岡八幡宮神幸祭

流鏑馬


鶴岡八幡宮







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御霊神社例大祭

面掛行列


お十夜


運慶の南都復興と興福寺北円堂~運慶 祈りの空間~



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