別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年7月10日金曜日
スサノオの里帰り~小動神社と江の島八坂神社の天王祭~
腰越の小動神社と江の島の八坂神社の天王祭は、かつて、「小動神社に祀られていたスサノオの御神像が江の島に流れ着いた」という伝説に基づいて開催される祭礼。
7月12日(日)の神幸祭では、浜降り式を行った八坂神社の神輿が海を渡り、龍口寺前で小動神社の神輿と合流して里帰りします。
10:00 発輿
11:00 海上渡御
14:00 龍口寺前到着
15:00 小動神社着御祭
16:10 小動神社発輿
17:00 龍口寺前でお別れ
2026年7月9日木曜日
源頼朝の鶴岡八幡宮新宮若宮
2026年7月1日水曜日
七夕まつりで恋愛成就祈願!~鶴岡八幡宮の鈴懸神事~
七夕は、織姫と彦星が年に一度だけ巡り会うことができる日とされています。
そのため、古くより良縁祈願や恋愛成就に極めて強いご利益がある日とされてきました。
鶴岡八幡宮では、七夕まつりの開催期間中に縁結びや良縁を祈願する「鈴懸神事」が執り行われます。
七夕飾りで彩られた舞殿で行われる縁結びや良縁を祈願できる特別な神事です。
梶の葉をかたどった色紙や短冊型の絵馬に願い事を書いて奉納すると・・・
巫女さんが頭上で神楽鈴を響かせて、願いが叶うよう祈念をしてくれます。
その後、本殿に向かって拝礼して、色紙や絵馬を舞殿の周囲に巡らされた紐に結びます。
鶴岡八幡宮の七夕まつりは・・・
7月1日から7日。
7日には七夕祭神事が執り行われます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2026年6月30日火曜日
源頼朝が本拠地とした鎌倉は「天下を収めるのに適した地」
源頼朝は、河内源氏六代棟梁の源義朝の嫡男。
1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、父義朝は尾張国で命を落とし、頼朝は伊豆国に流されました。
それから約20年を伊豆国で流人生活を送っていましたが、1180年(治承4年)8月に源氏再興の挙兵を果たします。
相模国へ進軍後、石橋山の戦いに大敗してしまいますが、安房国に渡って再挙。
下総国・上総国・武蔵国の武士団を率いて10月7日に鎌倉に入ります。
『吾妻鏡』によると、当時の鎌倉は辺鄙な所で、漁師と百姓以外住んでる人が少なかったようですが・・・
それでも「天下を収めるのに適した地だった」ようです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
頼朝に鎌倉を本拠とするよう進言したのは千葉常胤だったといわれています。
常胤は、
「先祖が残した遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適し、陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利であり、兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのまま」
と進言した上で・・・
「鎌倉」を以下のように説明したようです。
☆「鎌倉」という地名は、大織冠藤原鎌足の伝説に由来している。
伝説によると、飛鳥時代の貴族・中臣鎌足は、鹿島神宮を詣でる途中の由比の里(現鎌倉)で、鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まるという夢告を受けたのだとか。
この鎌足の鎌槍伝説は、鎌足がが中大兄皇子(のちの天智天皇)らとともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、大化の改新を断行した直後の646年のもの。
鎌足は669年に亡くなりますが、亡くなる前日に大織冠を授けられ藤原姓を賜ったのだといわれています。
☆鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていた。
鎌足の玄孫といわれる染屋時忠は、飛鳥時代から奈良時代にかけて鎌倉に住んで、関東諸国の総司令官として東国8ヶ国を治め、「由比の長者」と呼ばれていたそうです。
鎌倉最古といわれる甘縄神明神社は時忠の創建と伝えられています。
☆平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となった。
京都で藤原道長や頼通に仕えていた平直方は、鎌倉に所領を与えられ、大蔵の地に屋敷を構えて関東の本拠地としていました。
平直方は、平将門の乱を鎮圧した平貞盛の孫。
直方から鎌倉の地を譲り受けた源頼義は、由比郷に石清水八幡宮の分霊を迎えて由比若宮を創建しています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2026年6月27日土曜日
河内源氏~源氏三代(頼信・頼義・義家)と義朝・頼朝と鎌倉
河内源氏の基盤を築いた頼信・頼義・義家は「源氏三代」と称されます。
頼信は藤原道長の四天王の一人に数えられ、房総半島で起こった平忠常の乱を鎮めて源氏の武名を天下に轟かせました。
二代頼義は平直方から鎌倉の地を譲り受け、鎌倉を東国支配の拠点としました。
前九年の役後には鎌倉に京都の石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建。
三代義家は後三年の役を平定。
朝廷からは私闘と判断されて恩賞が与えられませんでしたが、義家は自らの私財をはたいて家来へ恩賞を与えて「武神」と崇められました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
東国の武士団と深く結びつき、武家の棟梁の地位を決定づけた源氏三代ですが・・・
義家の没後は、内紛や不祥事によって朝廷や摂関家からの信頼を失ってしまいます。
一時、鎌倉を拠点に東国武士団と強力な軍事基盤を築いた六代目の義朝が信頼を回復させますが・・・
義朝は1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れて命を落とし、子の頼朝も伊豆に流されて河内源氏は再び滅亡に危機に。
そして、清盛一族(平家・伊勢平氏)の全盛の時代に。
亀谷館
(イメージ図)
義朝は、幼い頃に東国へ下向。
安房国の丸御厨に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたことから「上総御曹司」と呼ばれていました。
成人してからは相模国の沼浜亭(現在の逗子市)を拠点に活動。
のちに先祖ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷に拠点を移し、東国における武士団の組織化と自身の勢力基盤の拡大を図りました。
亀谷館跡には、壽福寺が建てられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
平治の乱後の河内源氏は、七代棟梁となるはずの頼朝は伊豆国の流人となってしまいますが・・・
義朝が築いた東国武士団との強い絆は残されていました。
1180年(治承4年)、頼朝が源氏再興の挙兵をすると、かつて義朝に従っていた東国武士団が大挙して頼朝に味方。
先祖が残した鎌倉に入ります。
鎌倉を本拠地と定めた頼朝は、由比郷にあった鶴岡八幡宮(由比若宮)を鎌倉の中心地に遷座して街づくりの中心に据えました。
1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。
頼朝は父義朝の武力基盤を用いて河内源氏を武士の頂点に返り咲かせています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2026年6月21日日曜日
鎌倉八坂大神の六角神輿~京都の八坂神社の六角神輿を手本に造られた!~
扇ガ谷の鎮守・八坂大神は相馬師常が創建した神社。
現在の祭神は素戔雄尊ですが、創建時の祭神は牛頭天王。
そのため八坂大神は相馬天王と呼ばれていました。
おそらく祭礼は「天王祭」と呼ばれていたのでしょう。
現在の例大祭は7月12日ですが、かつての祭礼は7月5日から7月12日まで執り行われ、神輿渡御も複数に分けて行われていたそうです。
八坂大神の神輿は・・・
中世の祭礼での神輿は鉄製で祭りのときには血をみないではすまない神輿だったそうですが、多くの怪我人を出した鉄神輿は封印され、新たに木製の神輿が造られたのだとか。
新調された神輿が京都の八坂神社の神輿を手本とした六角神輿。
現在は担ぎ手不足なの理由から六角神輿の渡御は行われていませんが、六角神輿は神輿庫で大切に保管され、毎年7月上旬に開催される「扇ガ谷まつり」の際に拝観することができます。
2026年の「扇ガ谷まつり」は7月4日(土)。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2026年6月18日木曜日
八幡太郎義家氏神~鎌倉最古の甘縄神明神社と八幡神~
(イメージ図)
源氏が鎌倉の地を所領としたのは平安時代中期。
河内源氏の二代棟梁源頼義が相模守に任じられた際、平直方から鎌倉の邸宅や所領を譲り受けたことに始まります(1036年(長元9年)頃)。
同時に直方の娘を妻とした頼義は、甘縄神明神社に子宝に恵まれるよう祈願したのだと伝えられ、1039年(長暦3年)には嫡男となる義家を授かっています。
数えで7歳となった1045(寛徳2年)、義家は父の頼義に伴われて源氏の氏神として信仰されていた京都の石清水八幡宮で元服。
「八幡」の名を授かり、「八幡太郎義家」(はちまんたろうよしいえ)と名乗っています。
1063年(康平6年)、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建しますが、甘縄神明神社の社殿によると、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。
1081年(永保元年)には、義家が由比若宮の社殿を修復していますが、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。
本来、源氏の氏神は八幡神ですが、義家は甘縄神明神社も鎌倉における守護神(氏神)として信仰しました。
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