別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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ラベル 鎌倉の寺社・史跡・伝説 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2026年9月20日日曜日

源頼朝が日金地蔵を祀った地蔵堂(松源寺)




明治の神仏分離令が出されるまで、鎌倉には、鶴岡八幡宮供僧の菩提寺だった松源寺がありました。

伝承によると・・・

源頼朝が伊豆の流人時代に信仰していた日金山の地蔵尊を模刻させて安置した地蔵堂が始まり。

本尊の地蔵菩薩は運慶の作だったのだとか。

その場所は、鉄観音の西、窟堂の山の中壇。

現在の「鎌倉市川喜多映画記念館」「旧川喜多邸別邸」の敷地内と考えられています。

2024年(令和6年)末から2025年(令和7年)の川喜多映画記念館の南側で行われた発掘調査では、石敷き遺構が発見されいますが、松源寺に関連するものという可能性も。



明治の神仏分離により廃寺となった松源寺の地蔵尊は、一時、長谷寺に安置されていたようですが、昭和のはじめ頃に横須賀の東漸寺に移されています。

東漸寺の日金地蔵は鎌倉二十四地蔵の一つ。



窟堂(巌窟不動)と廃寺となった松源寺


旧川喜多邸別邸

二十五坊跡

鶴岡八幡宮


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神仏分離と鶴岡八幡宮

鎌倉二十四地蔵

鎌倉検定


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2026年9月19日土曜日

鎌倉長谷寺の大黒天縁日祈願会 9月26日




長谷寺大黒天縁日祈願会は、毎年9月26日。

長谷寺の大黒天は・・・

観音ミュージアムに収蔵されている大黒天像は、神奈川県最古の尊像といわれています。

大黒堂に祀られている「出世開運授け大黒天」は、鎌倉江の島七福神の一つ。

同じく大黒堂に置かれている「さわり大黒」は、さわるとご利益があるのだとか。

誰でも屋外から法要に参列できますが、大黒堂内には若干の席が用意され、希望者には山門下の受付で整理券が配布されます。

受付は9:00~
祈願会は10:00~



大黒天縁日祈願会


鎌倉江の島七福神


長谷寺


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午年 観音さまと特別結縁 全身総開帳

長谷寺の観音堂



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2026年9月16日水曜日

流鏑馬の埒~鶴岡八幡宮例大祭 小笠原流流鏑馬~




鶴岡八幡宮流鏑馬馬場の長さは140間(254.54m)。

馬場に設けられた柵を「埒」(らち)と呼ばれます。

的側は「男埒」(おらち)と呼ばれ、高さは三尺五寸(約106cm)。

反対側は「女埒」(めらち)と呼ばれ、高さは二尺八寸(約84cm)。

埒の幅は弓一丈・七尺五寸(2m27㎝)。


男埒・女埒と呼ぶ理由は・・・

陰陽道(おんみょうどう)における「陽」と「陰」の思想に由来しているのだとか。

古来より武術や神事は、左を「陽」(男・火・動)、右を「陰」(女・水・静)」とする「左陽右陰」(さようういん)という考え方に基づいた作法によって行われてきました。

日本の伝統文化や儀礼では、「左陽右陰」に基づく「左上位」(左側の方が格上)というルールが取り入れられています。

たとえば、京都の伝統的な「京雛」では、左に男雛(向かってみると右)、右に女雛(向かって見ると左)に飾られます。

流鏑馬では「陽」である進行方向の左側に的が設けられます。

そのため、的側が「男埒」、反対側が「女埒」と呼ばれるようです。


高さの違いは・・・

「的側の高い埒によって馬の走路を安定させる」などの説や、「男=陽」「女=陰」だから、男埒は高く、女埒は低いという説もあるうようですが、明確な理由は不明です。



この画像は、平安時代の『年中行事絵巻』に描かれた騎射の様子ですが、的側の埒が高く設置されているようです。

ということは、源頼朝鶴岡八幡宮で流鏑馬を行うようになってから考案されたものではなさそうです。



小笠原流流鏑馬


埒が明く・埒が明かない


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鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮


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2026年9月13日日曜日

片鐙の礼~鶴岡八幡宮例大祭 小笠原流流鏑馬~


「片鐙の礼」(かたあぶみのれい)とは、乗馬の際に片方の足だけを鐙から外す伝統的な礼法。




鶴岡八幡宮例大祭で奉仕される小笠原流流鏑馬では、射手が神前や奉行の前を通る際に敬意を表すために片鐙を外して挨拶をします。

あえて自分を不安定な姿勢にして、相手に戦意がないことを示す行為なのだとか。

上の画像は、左足を鐙から外した場面をAIに作成させたイメージ図。

鐙も描いてほしかったのですが・・・



この画像では分かりづらいかもしれませんが、「片方の足を鐙から外す」とは、「足を鐙から完全に抜いてしまう」のではなく、「足の裏を鐙からわずかに浮かせる状態」にする作法。



片鐙の礼


小笠原流流鏑馬



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鶴岡八幡宮例大祭
9月14日~16日


浜降式 鶴岡八幡宮例大祭
9月14日

鶴岡八幡宮の神幸祭
9月15日

小笠原流流鏑馬
9月16日


鶴岡八幡宮


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2026年9月11日金曜日

妙本寺祖師堂の特別開帳~龍口法難会~




妙本寺は、日蓮に帰依した比企能本が創建した鎌倉最古の日蓮宗寺院。

祖師堂には開祖の日蓮、第二祖の日朗、第三祖の日輪が祀られています。

日蓮が佐渡に流された龍ノ口法難を記念してに執り行われる9月12日の龍口法難会では、普段非公開の祖師堂が特別開帳されます。



龍口法難会の特別開帳


妙本寺の祖師堂

妙本寺


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龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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日蓮が日朗らに書いた土籠御書~龍ノ口法難・光則寺の土牢~




1271年(文永8年)9月12日、日蓮の松葉ヶ谷の草庵が平頼綱の兵たちに急襲され、日蓮とともに直弟子や在家信者が捕らえられました。

日蓮龍ノ口刑場へと送られますが、弟子たちは土牢に幽閉されたのだと伝えられています。

光則寺土牢は、直弟子の日朗が幽閉された岩窟。


10月10日、日蓮は佐渡流罪となりますが、佐渡へと旅立つ前日、土牢に幽閉されている弟子たちに手紙を書いています(『土籠御書』)。

弟子たちを案じて書いた『土籠御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るようにとも書かれており、日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたのだとか。

光則寺土牢の前には「土籠御書の碑」が建てられていますが、京都の妙覚寺には日蓮が五人の弟子や在家信者に書いた『五人土籠御書』が所蔵されています。



日朗の土牢と土籠御書

光則寺


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龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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裸足で日蓮のもとに駆けつけた四条金吾~龍ノ口法難~




1271年(文永8年)9月12日、日蓮が幕府に捕らえられ、龍ノ口刑場へと連行される際、弟子の四条金吾は裸足のまま日蓮のもとへと駆けつけたと伝えられています。

「もし聖人が斬られるなら、自分もその場で切腹しよう」

と考えていたのだとか。

のちに日蓮は、「金吾の功績は、未来永劫にわたって忘れない」と賞賛しています。



殉死の覚悟で参じた四条金吾

収玄寺



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龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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