別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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ラベル 鎌倉の寺社・史跡・伝説 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2025年9月1日月曜日

西行の東大寺再興勧進の旅と源頼朝


西行は、平安時代末から鎌倉時代初期の僧・歌人。

俗名は、佐藤義清(のりきよ)。

その家系は藤原秀郷を祖とし、曾祖父の頃より「左衛門尉」であったことから「佐藤」を名乗るようになったとする説があります。

源頼朝に仕えた安達盛長や、源義経に仕えた佐藤継信・忠信兄弟が同族といわれています。


義清が誕生したのは、平清盛と同じ1118年(元永元年)。

鳥羽上皇の時代には、北面の武士として仕えました。

「北面」とは、白河法皇の時に院警固のための設置された制度で、弓馬の道に優れただけではなく、眉目秀麗で、詩歌管弦に堪能であることが条件とされていたそうです。

しかし、義清は、1140年(保延6年)、23歳で出家し西行法師と号するように。

『西行物語』は、出家の原因を親友の佐藤範康の死と伝えているようです。


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出家後、諸国を巡り歩いた西行は、1186年(文治2年)、奥州への旅に出ます。

奥州への旅は二度目だったようですが・・・

二度目の旅は、1180年(治承4年)の南都焼討で焼失した東大寺再興に奔走していた大勧進・重源に砂金勧進を依頼されたためでした。

『吾妻鏡』によると・・・

その旅の途中で鎌倉に立ち寄った西行は源頼朝御所に招かれています。

頼朝は和歌と弓馬について西行に尋ねますが、

「和歌を作るのは、花や月をみて深く感動したときに三十一文字が浮かんでくるだけで、特別な秘訣などはありません」

「弓馬のことは出家する前までは秀郷以来の家伝もありましたが、出家遁世してしまった今はみんな忘れてしまいました」

と答えたのだといいます。

それでも弓馬について語った西行の話を、頼朝は筆記させたそうです。

翌日正午頃、西行は御所を退出し、奥州への旅を続けます。

その時に頼朝から銀の猫を賜ったそうですが、御所の門前で遊ぶ子どもにあげてしまったのだとか。


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奥州に到着した西行は、平泉藤原秀衡に面会。

秀衡から東大寺への送金を約束され、平泉を後にしますが・・・

翌1187年(文治3年)、頼朝に追われていた源義経が平泉に逃げ込んだことで、鎌倉と平泉の対立が決定的に。

東大寺への送金も途絶えてしまったそうです。

1189年(文治5年)、頼朝の奥州征伐により、奥州藤原氏が滅亡。

翌1190年(建久元年)、西行は73歳で亡くなっています。


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小笠原流・流鏑馬

西行から弓馬について聞いた頼朝は、1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮で放生会を催し、流鏑馬を奉納しています。

9月14日から16日の鶴岡八幡宮例大祭は、頼朝が催した放生会を起源とし、最終日には小笠原流流鏑馬が奉納されています。




きゝもせず
束稲やまの
さくら花
よし野のほかに
かゝるべしとは

平泉を訪れた西行は束稲山の桜を見て、

吉野の桜にも勝るとも劣らない」

と驚いたのだといいます。

中尊寺の東物見台に西行の歌碑が建てられています。









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奥州平泉

東大寺


鶴岡八幡宮例大祭

小笠原流流鏑馬


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2025年8月28日木曜日

鎌倉の明王院の不動明王は運慶の子康運の作かも。




明王院は、四代将軍・藤原頼経が五大明王を祀る寺院として建立しました。

五大明王のうち鎌倉時代のものは不動明王のみですが、肥後定慶の作とされています。

肥後定慶とは?

運慶の次男・康運のこととする説が有力となっています。

京都栂尾の高山寺の縁起によると、康運は定慶に改名しているのだとか。

かつて、京都には運慶が建立した地蔵十輪院がありました。

地蔵十輪院が焼亡した後、廬舎那仏と四天王像が高山寺に移されたのだといいますが、四天王像のうちの広目天は康運の作でした。

『高山寺縁起』には「広目天康運 改名定慶」と記されているようです。

ということで、定慶=康運という推測が成り立つのだとか。


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伝統的工芸品に指定されている鎌倉彫のもとは・・・

東大寺大仏を鋳造した陳和卿が宋から持ってきた彫漆工芸。

それを康運が真似て仏具を作ったことに始まるのだと言われています。




明王院


五大明王 明王院









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運慶

2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


興福寺北円堂


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2025年8月27日水曜日

運慶仏もある杉本寺の観音堂~鎌倉検定に出るかも?~





杉本寺は行基が開いたという鎌倉最古の寺。

本尊は行基・慈覚・恵心作と伝わる三体の十一面観音

『吾妻鏡』によると、1191年(建久2年)9月18日、源頼朝は杉本寺を参拝して修理代を寄進しています。

杉本寺の縁起によると、その時に本尊を内陣に安置させて秘仏とし、内陣前に運慶作の十一面観音像を寄進したのだといいます。


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2024年(令和6年)の鎌倉検定では、宝戒寺本堂内の仏像の配置が出題されました。

今年は杉本寺の出題があるかも。

杉本寺の観音堂には・・・

運慶作という地蔵菩薩

安阿弥(快慶)作という地蔵菩薩

昭和期に杉本寺の住職だった慈海僧正作の新十一面観音

宅間法眼作という毘沙門天

運慶作という観音三十三身

作者不明の不動明王

作者不明の賓頭盧尊者

なども安置されています。



鎌倉検定


杉本寺









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運慶

2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


興福寺北円堂


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2025年8月25日月曜日

運慶の頬焼阿弥陀~鎌倉:光触寺~




光触寺の本尊は阿弥陀三尊像

中尊の阿弥陀如来像は、運慶作で『頬焼阿弥陀縁起』(国重文)に登場するの阿弥陀仏なのだと伝えられています。




『新編鎌倉志』によると、運慶は1215年(建保3年)に源実朝の招きで鎌倉に下向。

その時に彫ったのが光触寺の阿弥陀如来像で、脇侍の観音は快慶、勢至は湛慶の作なのだとか。


運慶は1180年(治承4年)の南都焼討で焼失した東大寺興福寺の復興造仏事業に携わった奈良仏師。

東大寺南大門の金剛力士像や興福寺北円堂の諸像を造立しました。

頬焼阿弥陀が彫られたという1215年(建保3年)頃からは、源実朝北条政子北条義時などの依頼による造仏に携わりました。

『吾妻鏡』によると・・・

1216年(建保4年)、源実朝の持仏堂の本尊・釈迦如来

1218年(建保6年)、北条義時の大倉薬師堂(覚園寺)の薬師如来

1219年(承久元年)、北条政子の依頼により勝長寿院の五大尊像を手掛けています。

金沢の称名寺大威徳明王は、像内文書から1216年(建保4年)に、実朝の養育係だった大弐局の発願で造立されたことが判明しています。

ただ、これらの造仏のために鎌倉に下向したかどうかは不明。

快慶も東大寺興福寺の復興造仏事業に携わった仏師。

湛慶は運慶の子で三十三間堂の本尊千手観音坐像を造立しています。



光触寺

頬焼阿弥陀縁起


運慶









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東大寺

東大寺南大門



興福寺

興福寺北円堂


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


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2025年8月22日金曜日

教恩寺の阿弥陀如来~南都焼討の平重衡と鎌倉の源頼朝~


阿弥陀如来


鎌倉の教恩寺阿弥陀如来像は、平重衡の念持仏だったと伝えられているもの。

平重衡は平清盛の五男。

1180年(治承4年)12月28日、奈良の東大寺興福寺を焼いた武将として知られています(南都焼討)。

1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いでは、生田の森を守備していましたが、梶原景時らに捕えられてしまいました。

鎌倉に送られてきた重衡は、源頼朝からこの阿弥陀如来像を与えられたのだといいます。

運慶作とも伝えられている像ですが、快慶風の作風が感じられる像として、神奈川県の有形文化財に指定されています。



1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦で平家が滅亡すると、鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、6月23日、木津川で斬首されました。

京都にある重衡の墓は、妻の藤原輔子が建てたもの。

そこには東大寺復興の大勧進・俊乗坊重源の気遣いがあったのだとか。



教恩寺


南都焼討









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南都焼討後の復興事業で活躍したのが運慶率いる慶派仏師。

運慶


東大寺

東大寺南大門



興福寺

興福寺北円堂


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


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2025年8月11日月曜日

源頼朝の永福寺にも運慶仏があった?


かつて鎌倉にあった永福寺は、1192年(建久3年)、源頼朝奥州平泉中尊寺毛越寺無量光院などを模して建てた寺院。

1405年(応永12年)に焼失した後、廃絶したものと考えられ、現在は基壇と苑池が復元されています。




発掘調査では、中心に二階大堂、南に阿弥陀堂、北に薬師堂が回廊(複廊)で結ばれ、阿弥陀堂の南と薬師堂の北には苑池へと延びる翼廊を従えていたことが確認され、それぞれの翼廊の先端は釣殿となっていたと考えられています。

では、永福寺建立に関わった大工は・・・

遺物の軒瓦の中には、鶴岡八幡宮北条時政が伊豆に建立した願成就院のものと同じ型を使って作られたものも含まれていて、時政が願成就院を建てた大工や瓦職人を頼朝に斡旋したのだという推測が成り立つのだとか。


願成就院と言えば運慶

願成就院の阿弥陀如来像・毘沙門天・不動明王・矜羯羅童子・制咤迦童子の諸像は、胎内造像銘札により運慶の真作と判明しています。

そして・・・

近年では永福寺の造仏も運慶が担当したとする説が有力となってきています。

源実朝誕生時の祈願所となった横須賀の曹源寺の十二神将像は、運慶周辺の仏師によるものと考えられ、永福寺の薬師堂にあった十二神将像の模刻と考えられています。




永福寺跡


運慶


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間








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歴史めぐり源頼朝


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