別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


ラベル 鎌倉の寺社・史跡・伝説 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2026年9月11日金曜日

日蓮が日朗らに書いた土籠御書~龍ノ口法難・光則寺の土牢~




1271年(文永8年)9月12日、日蓮の松葉ヶ谷の草庵が平頼綱の兵たちに急襲され、日蓮とともに直弟子や在家信者が捕らえられました。

日蓮龍ノ口刑場へと送られますが、弟子たちは土牢に幽閉されたのだと伝えられています。

光則寺土牢は、直弟子の日朗が幽閉された岩窟。


10月10日、日蓮は佐渡流罪となりますが、佐渡へと旅立つ前日、土牢に幽閉されている弟子たちに手紙を書いています(『土籠御書』)。

弟子たちを案じて書いた『土籠御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るようにとも書かれており、日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたのだとか。

光則寺土牢の前には「土籠御書の碑」が建てられていますが、京都の妙覚寺には日蓮が五人の弟子や在家信者に書いた『五人土籠御書』が所蔵されています。



日朗の土牢と土籠御書

光則寺


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龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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裸足で日蓮のもとに駆けつけた四条金吾~龍ノ口法難~




1271年(文永8年)9月12日、日蓮が幕府に捕らえられ、龍ノ口刑場へと連行される際、弟子の四条金吾は裸足のまま日蓮のもとへと駆けつけたと伝えられています。

「もし聖人が斬られるなら、自分もその場で切腹しよう」

と考えていたのだとか。

のちに日蓮は、「金吾の功績は、未来永劫にわたって忘れない」と賞賛しています。



殉死の覚悟で参じた四条金吾

収玄寺



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龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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2026年9月10日木曜日

面掛行列の阿亀(おかめ)と源頼朝





御霊神社面掛行列は、爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男・福禄・阿亀・女の面を付けた十人衆の行列。

その中心人物は、妊婦姿で特別に着飾った九番目の阿亀(おかめ)。


伝説によると・・・

源頼朝は非人頭の娘を身籠らせてしまします。

娘のもとへと通う頼朝の警護は非人たちが行ったそうですが、身分の低い者だったので、面を着けていたそうです。

それが面掛行列の起こりともいわれ、妊婦の阿亀(おかめ)が行列に加わっているのはそのためなのだとか・・・。


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阿亀の大きなお腹は豊年・豊漁を呼び込むお腹です。

阿亀のお腹をさすると・・・

「安産の御利益」

子のない夫が阿亀の役を務めると・・・

「子宝に恵まれる」

と伝えられています。



面掛行列の阿亀


御霊神社の面掛行列

鶴岡八幡宮の面掛行列と御霊神社の面掛行列

鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬


御霊神社


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2026年9月9日水曜日

日蓮が袈裟を掛けた松~龍ノ口法難~




稲村ガ崎にある日蓮袈裟掛松跡は・・・

1271年(文永8年)9月12日夜半、裸馬に乗せられて龍ノ口刑場へと護送される日蓮が松の枝に袈裟を掛けたという地。

龍ノ口刑場で処刑される予定だった日蓮は、袈裟を血で汚すのはおそれ多いと思ったのだとか。




日蓮袈裟掛松

龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


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龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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2026年9月6日日曜日

福面まんじゅう~御霊神社の面掛行列の面を模した菓子~




「福面まんじゅう」は、御霊神社「面掛行列」で使われる面をかたどったもので、御霊神社入口にある力餅家で作られている菓子です。

面掛行列の中心人物「阿亀」や鎌倉江の島七福神の一つ「福禄寿」などが人気のようですが、自分で好きな面を指定して選ぶことは基本的にできません。

どの顔が当たるかはその時々の楽しみ。




力餅家の福面まんじゅう


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御霊神社例大祭


鎌倉神楽~御霊神社~

御霊神社神幸祭

御霊神社の面掛行列


御霊神社


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2026年9月5日土曜日

法性寺~日蓮・日朗ゆかりのお猿畠~




逗子の法性寺は、日蓮と日朗よかりの「お猿畠」に建てられた寺。

奥の院にある岩窟は、1260年(文応元年)の松葉ヶ谷法難で白猿に導かれた日蓮が避難したという場所。

日蓮を救った白猿は、かつて日蓮が修行した比叡山の山王権現(現在の日吉大社)の使いだったのだとか。

日蓮の岩窟の上には山王大権現が祀られています。

1320年(元応2年)に亡くなった日蓮の弟子日朗は、安国論寺で荼毘に付され、お猿畠に葬られました。


お猿畠法性寺

松葉ヶ谷法難


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厄除生姜供養

日蓮の松葉ヶ谷法難と白猿と厄除け生姜

妙法寺


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2026年9月4日金曜日

八幡大菩薩を叱りつけた日蓮~龍ノ口法難~




1271年(文永8年)9月12日夜半、裸馬に乗せられ龍ノ口刑場へと護送される日蓮は・・・

途中の下馬で馬を止めさせ、八幡大菩薩(鶴岡八幡宮)に向かって激しい抗議をします。

八幡大菩薩に対して「神としての義務を果たせ!できないのであれば神の資格を失うぞ!」と脅した日蓮の凄まじい剣幕に、護送していた兵たちは驚愕して震え上がってしまったのだとか。



八幡大菩薩に放った日蓮魂の一喝!


八幡大菩薩

龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


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龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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2026年8月26日水曜日

武士の流鏑馬~西行が源頼朝に語った弓馬術~


鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、1186年(文治2年)、西行から弓馬の故実や秘訣を聞いた源頼朝が、翌年の放生会で奉納したことに始まるのだと伝えられています。

頼朝が西行から聞いた弓矢術とは?

頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を始めてから半世紀が経った『吾妻鏡』(1237年(嘉禎3年)7月19日条)には、三代執権北条泰時が弓馬の名人である海野幸氏に孫の時頼の流鏑馬の指導を求めた時の事が記録されています。

この時、幸氏は頼朝の時代を回想して語りますが、その内容は・・・

当時は、弓に矢を番える(つがえる)際に「弓を一文字に持つ(地面と水平に持つ)」ことが作法だったようですが、西行は「一文字(真横)に寝かせてしまうと、矢を番えた後に『弓を垂直に立ち上げて、引き絞る』という次の動作へ移るのが遅れてしまうので、弓の上部を斜め上に向けた状態で矢を番えるべき」と説いたのだとか。

この教えには、それまで弓を一文字に持っていた下河辺行平・工藤景光・和田義盛望月重隆・藤沢清親・諏訪盛澄愛甲季隆などの弓の名手も「確かにその方が圧倒的に速く射れる!」と納得したのだと伝えられています。


弓の上部を斜め上に向けた状態
(イメージ図)


流鏑馬で使用する弓は2メートル以上。

そのため、鎌倉武士たちは、風の影響を受けないように、あるいは、馬の首にあたらないようにするなどの理由から、地面と水平に弓を構えて矢を番えていたのだそうです。

西行が頼朝に語った弓馬術は、西行の先祖藤原秀郷が大成させた実戦的な武家兵法。

西行は「弓を一文字に持つ」ことの不適切さとともに、「臨戦態勢」としての緊張感や美しさに欠けるとも説いています。

弓馬の作法は、「心構え」や「威厳」を神仏や主君に示すものであるので、弓を水平に寝かせている状態では、「すぐにすぐに射るようには見えず、礼儀に外れたものだ」と指摘したようです。




鶴岡八幡宮例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。

西行が頼朝に語った「無駄のない動きと美しさ」が組み込まれた弓馬術です。



小笠原流流鏑馬

西行と源頼朝


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鶴岡八幡宮例大祭


浜降式 鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮の神幸祭


小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮


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