別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年11月19日火曜日

鎌倉検定過去問~銭洗水~


鎌倉五名水の1つ、佐助の銭洗水で金銭を洗うと特に福利が増すといわれているのは何の日か。





銭洗水銭洗弁財天宇賀福神社の奥宮(洞窟内)の湧き水。

銭洗弁財天宇賀福神社は、源頼朝が宇賀福神を祀ったことに始まるといわれています。

宇賀福神は仏教の神である弁財天と習合された神で、体がヘビで頭が人の形。

2025年(令和7年)は巳年。

巳は蛇!

蛇は弁財天の使い。

巳の日には蛇が弁財天に願いを届けてくれる!


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


銭洗水鎌倉五名水のひとつ。

1685年(貞享2年)に徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』には・・・

「隠里の巌窟の中にあり。福神銭を洗と云う。鎌倉五水の一也」

と紹介されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


五代執権北条時頼は、巳成金(みなるかね)の日に参拝することを推奨したのだといいます(北条時頼の銭洗い)。

巳成金の日は、60日に一度巡ってくる「己巳の日」(つちのとみのひ)=弁財天の縁日。

そして、いつのころからか、霊水で銭を洗うと数倍になるという信仰が生まれました。

洗った銭は持っているのではなく使う事によって「数倍になって返ってくる」のだとか。





鎌倉検定


銭洗弁財天


鎌倉五名水


初巳祭








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鎌倉初詣特集

鎌倉新年のイベント

鎌倉江の島七福神


京都は七福神発祥の地
都七福神


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2024年11月15日金曜日

鎌倉検定過去問~一遍~


(問) 時宗の開祖一遍の鎌倉入りを阻止したのは、だれの警護をしていた武士か。



一遍上人絵伝
『一遍上人絵伝』

1282年(弘安5年)3月1日、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとした一遍は、八代執権北条時宗によって阻止されたといわれ、その時の様子が藤沢の清浄光寺(遊行寺)に伝わる『一遍上人絵伝』に描かれています。


光照寺

光照寺は、鎌倉入りを阻止された一遍一行が野宿した場所と伝えられています。


一遍上人地蔵堂跡

翌日、一遍は藤沢の片瀬に移り念仏行を行います。

片瀬には、一遍が踊り念仏を行ったという「一遍上人地蔵堂跡」が史跡として残されています。


一遍上人島の井戸
(江の島)

江の島にある島の井戸は、一遍が飲料水に窮する島民を助けるために掘り当てたのだと伝えられています。


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(問) 寺名と仏像名を漢字で書きなさい。




これは、光触寺にある一遍上人像。


一遍は、全国を遊行してまわり、民を「賦算(ふさん)」(「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた札を配ること)と「踊り念仏」で極楽浄土に導いた僧。


「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」

(なむあみだぶつ けっていおうじょう ろくじゅうまんにん)

一遍が配った札です。

六十万人の人たちに配ろうと考えて札を作ったようですが、実際は、二十五万人ほどで終わってしまったようです。



六波羅蜜寺:空也上人像
(京都:六波羅蜜寺)

一遍の「躍り念仏」は、尊敬する空也に倣ったものといわれています(参考:六波羅蜜寺)。

六波羅蜜寺の空也上人立像は、運慶の四男康勝の作(重要文化財)。

念仏を唱える空也の口から吐き出された六体の阿弥陀は、「南無阿弥陀仏」の六文字を表現しています。


(神戸市:真光寺)

全国を遊行した一遍は、1289年(正応2年)8月23日、摂津国兵庫津の観音堂(真光寺)で遷化。


『遊行縁起』

『遊行縁起』には、観音堂で多くの人に見守られながら生涯を終えた一遍が描かれています。




鎌倉検定








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旧川喜多邸別邸


湘南キャンドル


鎌倉の紅葉

長谷寺ライトアップ


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2024年10月24日木曜日

鎌倉検定過去問~奈良仏師~


雪ノ下の大御堂にあった〔   〕は、〔   〕が父親の供養のために創建、奈良から仏師〔   〕を招いて、黄金の〔   〕像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったと伝えられる。



勝長寿院跡

1185年(文治元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立します。

後白河法皇から送られた義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首が葬られました。

本堂(阿弥陀堂)には宅間(藤原)為久によって「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれ、本尊は奈良仏師の成朝が造仏しています。

1219年(承久元年)には、北条政子源実朝の冥福を祈るため五仏堂を建立し、運慶の五大尊像が安置されています。


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鎌倉検定では、勝長寿院の阿弥陀仏や圓應寺閻魔大王を造仏した仏師を定朝・成朝・運慶・快慶の中から選択させる問題がよく出されています。

定朝は藤原道長の時代に活躍した仏師。

道長の法成寺の造仏を担当し、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を造立しています。

そして、奈良仏師は定朝の孫頼助を始祖としています。

頼助は興福寺を拠点に活動し、康助→康朝→成朝と父から子へ受け継がれていきました。

しかし、成朝没後に正系は途絶え、傍系の康慶、運慶らの慶派に受け継がれていくことになります(※康慶は成朝の父康朝の弟子。)。

快慶も慶派の仏師です。

頼朝が成朝に造仏を依頼したことで、東国と奈良仏師の関係が開かれ、北条時政願成就院の諸仏制作を、和田義盛浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼しています。


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1180年(治承4年)、南都(奈良)は平清盛の命を受けた平重衡によって焼かれ(南都焼討)、興福寺東大寺が灰燼に帰しました。

興福寺復興にあたって成朝は、東金堂と食堂の造仏を任されたようです。

『吾妻鏡』によると、

1185年(元暦2年)、勝長寿院の本尊造仏のため鎌倉に下向した成朝ですが、その頃は東金堂の造仏にあたっていたようです。

しかし、勝長寿院の阿弥陀仏が完成した後も鎌倉に留まっていたたため、奈良大仏師の地位が他派に脅かされることとなっていたようです。

翌年3月2日、成朝は頼朝興福寺の造仏を他の仏師にやめさせるようにと訴え、頼朝は成朝を擁護する書状を京都に出しています。

ただ、食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に飛鳥山田寺から奪取したものが充てられているようです。

参考までに、運慶の父康慶は南円堂の造仏を任されています。

南円堂の不空羂索観音菩薩像・法相六祖坐像・四天王立像は康慶とその弟子によって造立されたもので国宝に指定されています。

そして運慶は、北円堂の造仏を任されています。

北円堂の本尊木造弥勒菩薩坐像、木造無著・世親菩薩立像は、運慶らによって造立されたもので国宝。

中金堂の四天王像は、北円堂に安置されていた運慶作の像ではないかと考えられています(国宝)。





鎌倉検定


運慶










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2024年10月19日から
鎌倉の伝運慶仏

2024年10月26日から
運慶展


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


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2024年10月12日土曜日

鎌倉検定過去問~光明寺のお十夜~


三日三晩、念仏やご詠歌を唱えると、千年の修行に値するといわれ、「お十夜」として市民にも親しまれている法要が行われる寺院はどこか。


後土御門天皇が光明寺に勅許を与えたことにより、全国の浄土宗寺院にしだいに広まっていった行事は何か。


光明寺を勅願所と定め、関東総本山の称号を与え、「十夜法要」を勅許した天皇はだれか。


光明寺の十夜法要では、三日三晩(元々は十日十夜)にわたり本堂で念仏を唱えると、何日の修行に値するといわれているか。


三日三晩にわたり本堂で念仏を唱えると、千年の修行に値するといわれ、後土御門天皇が光明寺で行うことに勅許を与えたことにより、全国の浄土宗寺院で行われることになったのは何か。


三日三晩にわたり本堂で念仏や御詠歌を唱えると、千年の修行に値するといわれている十夜法要が光明寺で行われるのはいつか。


寺名と行事名を漢字で書きなさい。

光明寺十夜法要



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お十夜


光明寺お十夜は、1495年(明応4年)、第九世観誉祐崇(かんよゆうそう)が、後土御門天皇の勅命で清涼殿において「引声阿弥陀経」・「引声念仏」による法要を勤修したことで勅許されました。

これが浄土宗寺院での「お十夜」の始まりとなります。

お十夜で念仏や御詠歌を唱えると千年の修行に値するといわれています。



勅願所の額

光明寺大殿総門に掲げられている「勅願所」の額は観誉祐崇の書。

光明寺は、祐崇の時に後土御門天皇より「関東総本山」の称号を受け「勅願所」とされています。


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(京都)

十夜の念仏会は、平安時代に慈覚大師円仁が唐の清涼山から比叡山に伝えたものといわれ、室町時代になって後花園天皇が京都東山の真如堂に伝えました。

そして、享徳年間(1452年~55年)、伊勢貞国が真如堂に籠もって、10月6日から15日までの10日間にわたって勤行したのが、現在の「十夜法要」のはじまりと伝えられています。

伊勢貞国は室町幕府の政所執事を務めた人物。

戦国時代の幕を開けた北条早雲は外孫です。

※早雲の出自については様々な説があるようですが、伊勢盛定の子・盛時というのが定説となっているようです。




お十夜


お十夜の始まり


光明寺


鎌倉検定








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旧川喜多邸別邸


長谷の市


湘南キャンドル

龍の口竹灯籠


宝物風入


鎌倉の紅葉

長谷寺ライトアップ


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