別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2026年1月22日木曜日

2026北本さくらまつり~源範頼ゆかりの地の桜祭~




埼玉県北本市は、謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉された源範頼が落ち延びた地といわれています。

「北本さくらまつり」の会場となる高尾さくら公園には、ソメイヨシノをはじめシダレザクラなど約30種200本の桜が植えられています。

高尾さくら公園近くにある阿弥陀堂は、範頼の妻亀御前を供養するために建てられたのだと伝えられています。



石戸の東光寺にある石戸蒲ザクラは、範頼の杖が根付いたものといわれ、国の天然記念物に指定されている古木。

三春滝桜(福島)、山高神代桜(山梨)、根尾谷淡墨桜(岐阜)、狩宿の下馬ザクラ(静岡)とともに日本五大桜に数えられています。



石戸蒲ザクラ


源範頼の謀叛

源範頼が書いた起請文




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狩宿の下場ザクラ

金王桜


鎌倉の桜




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2026年1月20日火曜日

京都 総神社~源義経の父義朝の神霊が祀られている社~


総神社は、源義経の誕生地とされる紫竹に鎮座する社。




平安時代末期、総神社付近には義経の父源義朝の別邸があって、妾だった常盤御前は、そこで牛若丸(義経)を出産したのだと伝えられています。

紫竹には、常盤御前が安産を祈願した常徳寺、常盤御前の守り本尊が安置されている光念寺牛若丸誕生井などの寺社・史跡が点在しています。





源義経

源義朝


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源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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2026年1月17日土曜日

源義朝が奉納した榎観音~浅草寺の初観音~




平安時代後期の1079年(承暦3年)、浅草寺が炎上した折、本尊は自ら榎の梢に避難したという故事が伝えられていますが・・・

後にその霊験を知った源義朝は、その榎で彫刻させた観音像を浅草寺に奉納したのだとか。

それが木造観音菩薩立像。

義朝の伝説から「榎観音」と呼ばれ、毎年1月12日から18日までの年頭法要「温座秘法陀羅尼会」(おんざひほうだらにえ)の本尊とされています。


「温座秘法陀羅尼会」は、7日間にわたって昼夜を問わず経を読み修法に励む儀式。

僧が次々に交代して経を読むので座が冷めることがないので温座と呼ばれています。

最終日の18日は初観音。

午後5時頃からの結願法要が終わると、松明を持った2人の鬼が現れる「亡者送り」と呼ばれる行事が行われます。

鬼が境内を駆けめぐって災厄を浄化し、最後に銭塚地蔵堂脇の供物が投入された穴に松明を投入します。

鬼が撒いた松明の燃えかすは、火除け・厄除け・疫病除けの縁起物とされ、参拝者が持ち帰ることができます。



浅草寺


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隅田川沿いの源頼朝伝説


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2025年12月20日土曜日

鎌倉検定 静御前が舞った若宮回廊


【問】
1186年(文治2),源頼朝に所望され,静御前が舞を舞ったのは鶴岡八幡宮のどこと伝えられているか。

(第19回2級)


1 参道
2 若宮回廊
3 舞殿
4 本殿



静の舞


正解は2の若宮回廊ですが・・・

若宮とは?

「神霊を他所に分霊して祀った社」又は「本宮の祭神の子を祀った社」のことをいいます。

現在の若宮は後者の社(主祭神である応神天皇の子仁徳天皇を祀っています。)。

静御前が舞った若宮は前者の社。

鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に石清水八幡宮の神霊を迎えて創建された社で、材木座の由比若宮が始まりです。

1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷しますが、「鶴岡八幡宮新宮若宮」と呼ばれていました。

当時は、現在のような本宮若宮の二宮の形式ではなく、現在の若宮付近に社殿がある一宮形式で、回廊に囲まれた本格的な社殿は1181年(養和元年)に造営されました。

『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮に参拝した源頼朝北条政子は、舞を奉納させるため静御前を回廊に呼び出しています。

静御前は、吉野山で別れた源義経を慕う歌にあわせて舞い、頼朝を怒らせますが、政子に取り成されて褒美を与えたのだと伝えられています。

静御前が舞った回廊は、1191年(建久2年)の鎌倉大火で焼失してしまいますが、1193年(建久4年)、回廊跡には舞殿が建てられています。



静の舞


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2025年12月19日金曜日

鎌倉検定 北条政子と源実朝の五輪塔~壽福寺の創建者は誰?~


【問】
壽福寺の墓地にある五輪塔は,源実朝とだれの墓と伝えられているか。

(第19回3級)


壽福寺には、北条政子源実朝の墓と伝えられている五輪塔があります。


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北条政子は、1225年(嘉禄元年)7月11日に逝去。

勝長寿院で荼毘に付されたのだと伝えられています。



源実朝の五輪塔


源実朝は、1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されました。

遺体は勝長寿院に葬られましたが、首は波多野の地に葬られたのだと伝えられています。


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『吾妻鏡』の記録からすると、北条政子源実朝勝長寿院に葬られたようですので、壽福寺の五輪塔は、供養塔として建てられたものと考えられます。

ただ、政子と実朝のものと断定されているわけではありません。

壽福寺は政子が創建したと伝えられる寺。

実朝は開山の栄西に帰依し、壽福寺の実朝の位牌には「当寺大檀那」と記されているようです。

そのため、二つの五輪塔が政子と実朝のものと伝承されてきたのかもしれません。


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壽福寺

一般的に、壽福寺北条政子源頼朝の菩提を弔うために創建した寺院とされていますが、嫡男の源頼家が創建したという説も有力です。

『吾妻鏡』によると壽福寺が建てられたのは1200年(正治2年)。

前年に頼朝が亡くなり、家督を相続していたのは頼家

「壽福寺由緒書」には、「開基は頼朝公草創の本願にて頼家公創建」と記されているようです。

ただ、『吾妻鏡』には、政子が源義朝(頼朝の父)の遺跡に壽福寺を建立しようとして、二階堂行光と三善康信(善信)に亀ヶ谷の地を巡検させ、逗子の沼浜亭(義朝の館)を壽福寺に移して与えたことなどが記されていることから、建立を主導したのは政子であることは間違いないようです。

当時の慣習として、頼朝の菩提を弔うためのような公的な寺院の建立には、家督を継いだ頼家の承認が必要だったと思われます。

また、経済的援助も必要だったでしょうから、開基の名義も頼家になったのかもしれません。

頼家は、1203年(建仁3年)に比企能員の変で伊豆の修禅寺に幽閉されて、翌年暗殺されています。

歴史に「もしもはない」と言われますが、もしも頼家が何事のなく将軍を務めていたとしたならば、壽福寺の大旦那は実朝ではなく頼家だったのでしょう。

実朝のものと伝えられる五輪塔も「源頼家の五輪塔」になっていたのかも・・・


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建仁寺法堂

1202年(建仁2年)創建という京都の建仁寺の開基も源頼家のようですが、実質的な創建者は開山の栄西だったようです。


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他にもある北条政子と源実朝の墓


北条政子の宝篋印塔
(安養院)

安養院は、北条政子源頼朝の菩提を弔うために建てたという笹目長楽寺をその前身としているといいます。

安養院本堂の裏には、北条政子のものと伝わる宝篋印塔が建てられています。



源実朝御首塚
(秦野市 金剛寺)

暗殺された源実朝の首を葬ったことがそのはじまりとされる秦野市の金剛寺の近くには、源実朝公御首塚があります。

もとは「木造の五輪塔」が建てられていましたが、その五輪塔は鎌倉国宝館に寄託されています。




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寿福寺


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2025年12月18日木曜日

鎌倉検定 光明皇后が建立させた杉本寺の本堂


【問】
観音様のお告げを受けた光明皇后が本堂を建立したと伝わる寺院はどこか。

(第19回3級)


杉本寺は、行基開山と伝えられる鎌倉最古の寺。

本堂は、観音菩薩のお告げにより、光明皇后が藤原房前と行基に建立させたのだと伝えられています。


杉本寺観音堂

現在の本堂は、1678年(延宝6年)の再建。


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光明皇后は、藤原不比等の娘で、聖武天皇の妃となりました。

聖武天皇とともに仏教を深く信仰し、特に観音菩薩に帰依していたことで知られます。

京都の清水寺にある子安塔は、聖武天皇と光明皇后が御子の誕生を祈願し、無事に安産できたことから建立されたのだと伝えられています。

子安塔の本尊は千手観音。

源義経の母常盤御前が信仰していた事でも知られています。

奈良の法華寺は、聖武天皇が国家鎮護のため建立させた国分尼寺の総本山だった寺院で、本尊の十一面観音は光明皇后の姿を模して造立されたのだと伝えられています。


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杉本寺の本堂を建立したという藤原房前は光明皇后の兄。

杉本寺と同じ坂東札所の長谷寺は、房前の開基といわれています。

行基は、東大寺大仏(奈良の大仏)建立の勧進を任された僧。

東大寺は、聖武天皇と光明皇后が夭折した皇子の追善のために建てた寺が始まりです。




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杉本寺


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初観音



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2025年12月17日水曜日

鎌倉検定 和田義盛の滅亡~和田合戦~


【問】
1213年(建保元)、北条義時の挑発によって兵を挙げ、一族とともに由比ヶ浜で滅亡した人物はだれか。

(第19回3級)



1213年(建暦3年)に起こったのは和田合戦

この年の2月の泉親衡の謀反で、和田義盛の甥胤長が処罰されたことで、義盛と北条義時との関係が悪化。

義盛は三浦義村や横山氏を味方につけて、5月2日、北条氏打倒の兵を挙げますが・・・

義村に裏切られるなど兵力不足の義盛は、源実朝を擁して兵を集めた義時に敗れ、5月3日、由比ヶ浜で最期を遂げました。

由比ヶ浜の和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。


問題には「北条義時に挑発よって兵を挙げ」と書かれています。

義時は義盛の甥が泉親衡の謀反に関わっていたのを機に挑発を始めたようですが・・・

いつごろから義盛を滅ぼそうと考えていたのでしょう?



『吾妻鏡』によると・・・

和田合戦が起こる2年半ほど前の1210年(承元4年)11月21日明け方、駿河国の建穂寺の鎮守馬鳴大明神から酉年(2013年)に戦があるというお告げがあったそうです。

同日、源実朝も夢の中でお告げを聞いたのだとか。

この前年の5月、義盛は上総国司(上総介)への任官を望みますが、翌年6月、上総国司に任命されたのは藤原秀康でした。

建穂寺の馬鳴大明神の予告は、それから5ヶ月後。

義盛が上総国司任官を望んだのは、義時に対抗できる地位が欲しかったからといわれていますが、

『吾妻鏡』の記述は、 「義盛がこの頃から反乱を起こそうと考えていたこと」、

あるいは、

「義時がこの頃から義盛を滅ぼそうと考えていたこと」

を伝えているのかもしれません。


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泉親衡(和泉小次郎親衡)は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁立し、北条義時を討とうと企て、和田合戦のきっかけを作った武将ですが・・・

京の刀工・三条宗近が祇園社(現在の八坂神社)に納めた長刀を懇望して愛用していたのだといいます。

その長刀は、祇園祭の前祭巡行の先頭を行く長刀鉾に飾られるようになりました。

そのため、長刀鉾の天王台には、小舟を肩に担ぎ大長刀を持った和泉小次郎親衡(泉親衡)の像が置かれています。



和田合戦


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