別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年9月22日火曜日
鎌倉の源氏館は亀ヶ谷にあった?
鎌倉は、源頼朝が鎌倉入りする前から源氏ゆかりの地。
頼朝の父義朝の屋敷は亀ヶ谷(現在の壽福寺)にあったようですが、それ以前の源氏館は?
頼朝の先祖で河内源氏二代棟梁の源頼義は、平直方から鎌倉の地と屋敷を譲り受けたのだと伝えられています。
その屋敷は何処にあったのか?
『天養記』によると、義朝は「鎌倉之楯」と呼ばれる拠点を先祖から受け継いるようです。
ということは、平直方の館も源頼義館も亀ヶ谷にあったということなのでしょうか?
壽福寺門前から鉄ノ井までの窟小路は、かつては朝比奈峠を越えて六浦津にいたる幹線道路の一部として機能していました。
この道が敷かれたのが、平直方が房総半島で起きた平忠常の乱を鎮圧するため、鎌倉の館に兵や物資を集めていた1028年(長元元年)頃という説があるようです。
だとすると、兵や物資調達の起点は亀ヶ谷だったのかも?
2026年9月9日水曜日
日蓮が袈裟を掛けた松~龍ノ口法難~
2026年9月8日火曜日
韮山城早雲まつり2026~伊豆の国市~
韮山城は北条早雲が居城とした平山城。
昨年、韮山城跡が国指定史跡となったことを記念して「韮山城早雲まつり」が開催されます。
2026年9月27日(日)
10:00~15:00
甲冑行列、国清汁の振舞い、シイタケの原木プレゼントなどのイベントが盛りだくさん。
甲冑行列には、埼玉県寄居町の「寄居北條まつり」で活躍する甲冑隊が参加。
国清汁は、伊豆の国市の古刹国清寺に伝わる精進料理。
伊豆は、原木しいたけ栽培の発祥の地とも。
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北条早雲の城
韮山は源頼朝ゆかりの地
2026年9月7日月曜日
北条政子の日向薬師参詣~道灌まつりでは参詣行列が。~
日向薬師は、1192年(建久3年)8月9日、源頼朝が北条政子の安産祈願のため、馬を寄附して読経をあげさせた寺社の一つ。
この日に誕生したのが、三代将軍となった源実朝。
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『吾妻鏡』には、1210年(承元4年)6月8日と1211年(建暦元年)7月8日の二度、北条政子が日向薬師を参詣したことが記録されています。
この頃、源実朝は、1208年(承元2年)に患った疱瘡の後遺症(痘痕(あばた))による精神的ショックから、鶴岡八幡宮参拝をはじめとする公式行事に姿を現さない状況が続いてしました。
『吾妻鏡』には、政子が日向薬師を参詣した理由が記されていませんが、二度目の参詣時には実朝の妻坊門姫も同行していることから、実朝の病気平癒祈願ではなかったのかと。
参考までに、政子は二度目の参詣後、鶴岡八幡宮に薬師如来を安置しています。
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秋の日向薬師の麓は彼岸花の里。
政子が日向薬師参詣のために歩いた日陰道にも彼岸花が咲きます。
10月の道灌まつりでは、「太田道灌公鷹狩り行列」と「北条政子日向薬師参詣行列」が。
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2026年9月6日日曜日
重籐弓で射落とした扇の的~那須与一の伝説 屋島の戦い~
1185年(元暦2年)、讃岐国の屋島。
『平家物語』によると、
屋島の戦いの夕暮れ時、源義経の軍勢が引き上げようとするところに、沖の方から平家の美しい女房を乗せた小舟が一艘が現れ・・・
竿の先につけた紅色に日輪が描かれた扇を掲げ、「これを射落としてみよ」と挑発してきました。
義経は弓の名手・那須与一を呼び寄せて扇の的を射落とすよう命じます。
海に馬を乗り入れた与一は、約80メートル先の扇を見事に射抜き、扇を空へと舞い上がらせたのだとか。
このとき与一が所持していたのが重籐の弓。
重籐弓は大将や弓の名手にしか所持できない特別な弓。
鶴岡八幡宮の例大祭で奉仕される小笠原流流鏑馬でも許しを得た者だけが使用できる最高格の弓です。
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2026年9月5日土曜日
蓑を借りるつもりが少女に山吹を差し出された太田道灌~道灌まつり~
太田道灌は、扇谷上杉家の家宰を務めた戦国武将。
ある日、鷹狩り中に急な雨に遭った道灌。
蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄りますが・・・
中から出てきた少女が差し出したのは山吹でした。
腹を立た帰った道灌でしたが、後から
七重八重
花は咲さけども
山吹の
実のひとつだに
なきぞ悲かなしき
という古歌を引用して「実の」と「蓑」をかけて、「蓑もない有様でごめんなさい」という意味であることを知ったのだとか。
以降、道灌は和歌の勉強に励んだのだと伝えられています。
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