別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年7月26日日曜日
弦巻田を放生池にした源頼朝~鶴岡八幡宮源平池~
『吾妻鏡』によると、1182年(養和2年)4月24日、源頼朝は鶴岡八幡宮の周辺にあった「絃巻田」という水田を池としています。
「絃巻田」は、神へ捧げる為の米を栽培する斎田で、苗を渦巻き状に植える水田と考えられています(諸説あり)。
もしかすると、源頼義が由比郷に建てた由比若宮の神に供える米を栽培していた可能性も。
頼朝は造営したのは、「捕らえた魚や鳥などの生き物を殺さずに自然の川や池に放す」という仏教の教えである「放生」や「放生会」を行うための放生池です。
生き物を放つ行為は、自らの罪を清め、功徳(善い行い)を積むためのもの。
頼朝は、1180年(治承4年)に由比若宮を現在地に遷座していますが、戦による戦死者の供養と源氏の繁栄を祈願するため、わざわざ神の水が湧く地を選んだのかもしれません。
そして、1187年(文治3年)には、大規模な放生会を催しています。
この放生会が現在の鶴岡八幡宮例大祭の起源といわれています。
鶴岡八幡宮の太鼓橋~赤橋と呼ばれていた橋~
2026年7月25日土曜日
2026年7月9日木曜日
源頼朝の鶴岡八幡宮新宮若宮
2026年7月6日月曜日
源実朝の七夕歌は宇宙スケール!
源実朝の七夕歌は、伝統的な王朝文化の七夕とは異なる宇宙スケールの世界。
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こひこひて 稀にあふ夜の 天の川
川瀬のたづは 鳴かずもあらなん
川瀬のたづは 鳴かずもあらなん
天の川 きり立ちわたる 彦星の
つま迎へ舟 はやも漕がなん
つま迎へ舟 はやも漕がなん
彦星の ゆきあひをまつ 久方の
天の川原に 秋風ぞふく
天の川原に 秋風ぞふく
天の川 水泡さかまき ゆく水の
はやくも秋の 立ちにけるかな
はやくも秋の 立ちにけるかな
夕されは 秋風涼し たなばたの
天の羽衣 たちや更ふらん
天の羽衣 たちや更ふらん
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2026年6月30日火曜日
織田信長が関心をもった竹生島の「青葉の笛」~人間五十年・・・~
源頼朝が本拠地とした鎌倉は「天下を収めるのに適した地」
源頼朝は、河内源氏六代棟梁の源義朝の嫡男。
1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、父義朝は尾張国で命を落とし、頼朝は伊豆国に流されました。
それから約20年を伊豆国で流人生活を送っていましたが、1180年(治承4年)8月に源氏再興の挙兵を果たします。
相模国へ進軍後、石橋山の戦いに大敗してしまいますが、安房国に渡って再挙。
下総国・上総国・武蔵国の武士団を率いて10月7日に鎌倉に入ります。
『吾妻鏡』によると、当時の鎌倉は辺鄙な所で、漁師と百姓以外住んでる人が少なかったようですが・・・
それでも「天下を収めるのに適した地だった」ようです。
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頼朝に鎌倉を本拠とするよう進言したのは千葉常胤だったといわれています。
常胤は、
「先祖が残した遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適し、陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利であり、兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのまま」
と進言した上で・・・
「鎌倉」を以下のように説明したようです。
☆「鎌倉」という地名は、大織冠藤原鎌足の伝説に由来している。
伝説によると、飛鳥時代の貴族・中臣鎌足は、鹿島神宮を詣でる途中の由比の里(現鎌倉)で、鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まるという夢告を受けたのだとか。
この鎌足の鎌槍伝説は、鎌足がが中大兄皇子(のちの天智天皇)らとともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、大化の改新を断行した直後の646年のもの。
鎌足は669年に亡くなりますが、亡くなる前日に大織冠を授けられ藤原姓を賜ったのだといわれています。
☆鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていた。
鎌足の玄孫といわれる染屋時忠は、飛鳥時代から奈良時代にかけて鎌倉に住んで、関東諸国の総司令官として東国8ヶ国を治め、「由比の長者」と呼ばれていたそうです。
鎌倉最古といわれる甘縄神明神社は時忠の創建と伝えられています。
☆平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となった。
京都で藤原道長や頼通に仕えていた平直方は、鎌倉に所領を与えられ、大蔵の地に屋敷を構えて関東の本拠地としていました。
平直方は、平将門の乱を鎮圧した平貞盛の孫。
直方から鎌倉の地を譲り受けた源頼義は、由比郷に石清水八幡宮の分霊を迎えて由比若宮を創建しています。
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