別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2026年8月26日水曜日

武士の流鏑馬~西行が源頼朝に語った弓馬術~


鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、1186年(文治2年)、西行から弓馬の故実や秘訣を聞いた源頼朝が、翌年の放生会で奉納したことに始まるのだと伝えられています。

頼朝が西行から聞いた弓矢術とは?

頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を始めてから半世紀が経った『吾妻鏡』(1237年(嘉禎3年)7月19日条)には、三代執権北条泰時が弓馬の名人である海野幸氏に孫の時頼の流鏑馬の指導を求めた時の事が記録されています。

この時、幸氏は頼朝の時代を回想して語りますが、その内容は・・・

当時は、弓に矢を番える(つがえる)際に「弓を一文字に持つ(地面と水平に持つ)」ことが作法だったようですが、西行は「一文字(真横)に寝かせてしまうと、矢を番えた後に『弓を垂直に立ち上げて、引き絞る』という次の動作へ移るのが遅れてしまうので、弓の上部を斜め上に向けた状態で矢を番えるべき」と説いたのだとか。

この教えには、それまで弓を一文字に持っていた下河辺行平・工藤景光・和田義盛望月重隆・藤沢清親・諏訪盛澄愛甲季隆などの弓の名手も「確かにその方が圧倒的に速く射れる!」と納得したのだと伝えられています。


弓の上部を斜め上に向けた状態
(イメージ図)


流鏑馬で使用する弓は2メートル以上。

そのため、鎌倉武士たちは、風の影響を受けないように、あるいは、馬の首にあたらないようにするなどの理由から、地面と水平に弓を構えて矢を番えていたのだそうです。

西行が頼朝に語った弓馬術は、西行の先祖藤原秀郷が大成させた実戦的な武家兵法。

西行は「弓を一文字に持つ」ことの不適切さとともに、「臨戦態勢」としての緊張感や美しさに欠けるとも説いています。

弓馬の作法は、「心構え」や「威厳」を神仏や主君に示すものであるので、弓を水平に寝かせている状態では、「すぐにすぐに射るようには見えず、礼儀に外れたものだ」と指摘したようです。




鶴岡八幡宮例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。

西行が頼朝に語った「無駄のない動きと美しさ」が組み込まれた弓馬術です。



小笠原流流鏑馬

西行と源頼朝


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鶴岡八幡宮例大祭


浜降式 鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮の神幸祭


小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮


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2026年8月17日月曜日

鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場




流鏑馬馬場は、鶴岡八幡宮の境内中央付近を東西に走る道。

東の鳥居から西の鳥居までの約254mの道です。

1187年(文治3年)8月15日、源頼朝鶴岡八幡宮放生会を催し、流鏑馬を奉納していますが、そのために整備されたのが流鏑馬馬場

『吾妻鏡』によると、放生会の日が迫った8月9日、頼朝が監督する中、境内が清められ、馬場を造って、馬が走る領域を区切る「埒」(らち)が結ばれたのだとか。

頼朝が始めた放生会は現在の例大祭へと引き継がれ、例大祭の最終日には小笠原流流鏑馬が奉納されています。



流鏑馬馬場


小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬

鶴岡八幡宮例大祭


鶴岡八幡宮


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2026年8月15日土曜日

源頼朝が鶴岡八幡宮で始めた放生会


放生会は、仏教の殺生を禁じる思想に基づくもので、魚や鳥などを山野に放ち、善根(よい報いを招くもととなる行為)を施すという仏教の儀式。

1187年(文治3年)8月15日、源頼朝鶴岡八幡宮放生会を催しました。

この放生会が現在の例大祭の起源とされています。




我が国の放生会は、八幡神の神託により744年(天平16年)頃に宇佐八幡宮で始められました。

863年(貞観5年)には石清水八幡宮でも放生会が執り行われるようになり、948年(天暦2年)には勅祭とされました。

頼朝は、石清水八幡宮の放生会を模した大規模な儀式を執り行い、鎌倉武家政権の正当性を誇示しようとしたのかもしれません。



放生会では流鏑馬が奉納されていますが、この時期は奥州平泉藤原秀衡のもとに源義経が逃げ込んだことで秀衡との対立が深まっていました。

流鏑馬は、平泉の秀衡に対しての「武力誇示」と、「鎌倉に弓を引くなら即攻め込む」という強い意志を表したものだったのかも。



鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭

小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮


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源頼朝が始めた流鏑馬神事と西行の教え。




1186年(文治2年)8月15日、東大寺再建のため奥州へ向かう途中の西行が鎌倉を訪れます。

『吾妻鏡』によると、源頼朝鶴岡八幡宮を参拝すると鳥居の辺りを徘徊していたのだとか。

その後、御所に招かれた西行は、一晩に渡って弓馬の故実を語り、翌日、奥州へと旅立っていったのだそうです。

西行は、実戦的な騎射術である流鏑馬を大成させた藤原秀郷の子孫。

流鏑馬は古代から宮廷行事として行われていましたが、秀郷は実戦で勝つための戦闘技術として鍛え上げました。

頼朝は西行から秀郷流流鏑馬の秘訣を学んだということになります。

翌年、頼朝は放生会を催して流鏑馬を奉納していますが、西行の話に感銘を受けて奉納したのだとか。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆




鶴岡八幡宮の流鏑馬は頼朝が武家の儀礼・訓練として新しく始めたもの。

宮廷行事としての流鏑馬は、公家風の衣装が用いて行われていましたが、秀郷流を受け継いだ「武士の流鏑馬」では、武士が山野の狩りで着る「狩装束」(かりしょうぞく)で行われました。

現在の鶴岡八幡宮で奉仕される流鏑馬は小笠原流ですが、小笠原流も頼朝によって始められた「武士の流鏑馬」の系譜を引いています。



西行と源頼朝


鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭

小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮


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2026年8月14日金曜日

三嶋大社の祭礼の日に挙兵した源頼朝!




伊豆の流人だった源頼朝源氏再興の挙兵をした際の最初の相手は、伊豆国の目代(伊豆国における平家の最高責任者)だった山木兼隆ですが・・・

頼朝は山木館襲撃を源氏再興の祈願をしていた三嶋大社の祭礼の日(8月17日)と定めました。

その理由は・・・

「山木館の兵が祭礼に出かけて警備が手薄になるから」

あるいは

「祭礼の雑踏に紛れて進軍することができるため」

などと語られているようですが、本当にそうなのでしょうか?

頼朝の当初の挙兵計画は、8月17日の午前5時頃に挙兵して山木館を急襲するというものでした。

祭礼が始まる前の人々が動き出す前の時刻です。

山木館の兵も出払っていないはずですし、祭礼の雑踏などあり得ない事です。

ただ、挙兵は当初の計画通りにはいかず、午後8時頃の挙兵となりました。

結果的に祭礼の雑踏の中を進軍することになりますが、『吾妻鏡』には「三嶋社の祭礼で大勢の人がいるので、軍勢が通れば怪しまれる」と書かれています。

また、結果的に「山木館の兵も祭礼に出掛けて館が手薄になった」ようですが、当初からそうなると考えていたわけではなさそうです。

では何故、祭礼の日にしたのか?

明確な理由は語れませんが、おそらく、三嶋大社の神の力をお借りするために祭礼の日を選んだのかと。



三嶋大社の祭礼の日に挙兵した源頼朝

三嶋大社


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2026年8月3日月曜日

鎌倉安養院の千手観音の伝説~北条政子祈願の良縁観音~




安養院千手観音には、北条政子が祈願したという言い伝えがあります。

まだ、源頼朝が伊豆の流人だった頃のお話です。

政子は、千手観音に祈願して流人頼朝と結ばれることができたのだとか。

そのため、安養院の千手観音は「良縁観音」と呼ばれています。

安養院は頼朝亡き後に政子が供養のために建てた長楽寺を前身としている寺。

時代が合わないという疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが・・・

政子が祈願したのが千手観音の胎内に納められている千手観音だったとすれば辻褄が合います。

何故なら、胎内の千手観音は伊豆の豪族田代信綱の持仏だったものだから。


千手観音イメージ図

田代信綱の千手観音は、伊豆の叢林寺に祀られていましたが、頼朝によって鎌倉に武家の都が築かれると、信綱は鎌倉に田代寺を建てて千手観音を移したのだと伝えられています。

江戸時代に田代寺が焼失したため、安養院の千手観音の胎内に納められたのだとか。


8月10日は四万六千日

観音菩薩の特別な縁日です。

坂東札所三番の安養院

午前5時開門
午前9時まで自由拝観。



四万六千日

安養院の千手観音


安養院の観音堂

安養院


鎌倉三十三観音霊場


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鎌倉の夏

ぼんぼり祭

黒地蔵縁日

閻魔縁日


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2026年7月28日火曜日

鶴岡八幡宮一の鳥居の創建はいつ?




鶴岡八幡宮一の鳥居浜の大鳥居)は、参道の若宮大路の南端にある鳥居ですが、1180年(治承4年)に源頼朝が創建したものと伝承されています。

『吾妻鏡』によると、この年の10月、鎌倉を本拠とした頼朝は由比若宮を現在地に遷座。

12月には鶴岡若宮に鳥居を建てています。

この『吾妻鏡』の記事が創建年の根拠となっているようですが・・・

このとき参道の若宮大路は造営されていません。

若宮大路が造営されるのは1182年(養和2年)のことですので、1180年(治承4年)に建てられたのは社殿のすぐ前の鳥居と考えられます。

近年では、若宮大路造営時の1182年(養和2年)の創建とする説が有力となっています。




鶴岡八幡宮浜の大鳥居

鶴岡八幡宮大鳥居


若宮大路

段葛


源頼朝の鎌倉入りと鶴岡八幡宮新宮若宮

鶴岡八幡宮


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