別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2026年9月5日土曜日

蓑を借りるつもりが少女に山吹を差し出された太田道灌~道灌まつり~




太田道灌は、扇谷上杉家の家宰を務めた戦国武将。

ある日、鷹狩り中に急な雨に遭った道灌。

蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄りますが・・・

中から出てきた少女が差し出したのは山吹でした。

腹を立た帰った道灌でしたが、後から

七重八重
花は咲さけども
山吹の
実のひとつだに
なきぞ悲かなしき


という古歌を引用して「実の」と「蓑」をかけて、「蓑もない有様でごめんなさい」という意味であることを知ったのだとか。

以降、道灌は和歌の勉強に励んだのだと伝えられています。



太田道灌の鷹狩りと山吹の里伝説


北条政子の日向薬師参詣

道灌まつり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


日向薬師

大山寺

大山詣り


源頼朝


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法性寺~日蓮・日朗ゆかりのお猿畠~




逗子の法性寺は、日蓮と日朗よかりの「お猿畠」に建てられた寺。

奥の院にある岩窟は、1260年(文応元年)の松葉ヶ谷法難で白猿に導かれた日蓮が避難したという場所。

日蓮を救った白猿は、かつて日蓮が修行した比叡山の山王権現(現在の日吉大社)の使いだったのだとか。

日蓮の岩窟の上には山王大権現が祀られています。

1320年(元応2年)に亡くなった日蓮の弟子日朗は、安国論寺で荼毘に付され、お猿畠に葬られました。


お猿畠法性寺

松葉ヶ谷法難


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厄除生姜供養

日蓮の松葉ヶ谷法難と白猿と厄除け生姜

妙法寺


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2026年9月4日金曜日

八幡大菩薩を叱りつけた日蓮~龍ノ口法難~




1271年(文永8年)9月12日夜半、裸馬に乗せられ龍ノ口刑場へと護送される日蓮は・・・

途中の下馬で馬を止めさせ、八幡大菩薩(鶴岡八幡宮)に向かって激しい抗議をします。

八幡大菩薩に対して「神としての義務を果たせ!できないのであれば神の資格を失うぞ!」と脅した日蓮の凄まじい剣幕に、護送していた兵たちは驚愕して震え上がってしまったのだとか。



八幡大菩薩に放った日蓮魂の一喝!


八幡大菩薩

龍ノ口法難 鎌倉と日蓮


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龍口法難会 常栄寺

龍口法難会 龍口寺


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2026年8月26日水曜日

武士の流鏑馬~西行が源頼朝に語った弓馬術~


鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、1186年(文治2年)、西行から弓馬の故実や秘訣を聞いた源頼朝が、翌年の放生会で奉納したことに始まるのだと伝えられています。

頼朝が西行から聞いた弓矢術とは?

頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を始めてから半世紀が経った『吾妻鏡』(1237年(嘉禎3年)7月19日条)には、三代執権北条泰時が弓馬の名人である海野幸氏に孫の時頼の流鏑馬の指導を求めた時の事が記録されています。

この時、幸氏は頼朝の時代を回想して語りますが、その内容は・・・

当時は、弓に矢を番える(つがえる)際に「弓を一文字に持つ(地面と水平に持つ)」ことが作法だったようですが、西行は「一文字(真横)に寝かせてしまうと、矢を番えた後に『弓を垂直に立ち上げて、引き絞る』という次の動作へ移るのが遅れてしまうので、弓の上部を斜め上に向けた状態で矢を番えるべき」と説いたのだとか。

この教えには、それまで弓を一文字に持っていた下河辺行平・工藤景光・和田義盛望月重隆・藤沢清親・諏訪盛澄愛甲季隆などの弓の名手も「確かにその方が圧倒的に速く射れる!」と納得したのだと伝えられています。


弓の上部を斜め上に向けた状態
(イメージ図)


流鏑馬で使用する弓は2メートル以上。

そのため、鎌倉武士たちは、風の影響を受けないように、あるいは、馬の首にあたらないようにするなどの理由から、地面と水平に弓を構えて矢を番えていたのだそうです。

西行が頼朝に語った弓馬術は、西行の先祖藤原秀郷が大成させた実戦的な武家兵法。

西行は「弓を一文字に持つ」ことの不適切さとともに、「臨戦態勢」としての緊張感や美しさに欠けるとも説いています。

弓馬の作法は、「心構え」や「威厳」を神仏や主君に示すものであるので、弓を水平に寝かせている状態では、「すぐにすぐに射るようには見えず、礼儀に外れたものだ」と指摘したようです。




鶴岡八幡宮例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。

西行が頼朝に語った「無駄のない動きと美しさ」が組み込まれた弓馬術です。



小笠原流流鏑馬

西行と源頼朝


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鶴岡八幡宮例大祭


浜降式 鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮の神幸祭


小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮


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2026年8月17日月曜日

鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場




流鏑馬馬場は、鶴岡八幡宮の境内中央付近を東西に走る道。

東の鳥居から西の鳥居までの約254mの道です。

1187年(文治3年)8月15日、源頼朝鶴岡八幡宮放生会を催し、流鏑馬を奉納していますが、そのために整備されたのが流鏑馬馬場

『吾妻鏡』によると、放生会の日が迫った8月9日、頼朝が監督する中、境内が清められ、馬場を造って、馬が走る領域を区切る「埒」(らち)が結ばれたのだとか。

頼朝が始めた放生会は現在の例大祭へと引き継がれ、例大祭の最終日には小笠原流流鏑馬が奉納されています。



流鏑馬馬場


小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬

鶴岡八幡宮例大祭


鶴岡八幡宮


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2026年8月15日土曜日

源頼朝が鶴岡八幡宮で始めた放生会


放生会は、仏教の殺生を禁じる思想に基づくもので、魚や鳥などを山野に放ち、善根(よい報いを招くもととなる行為)を施すという仏教の儀式。

1187年(文治3年)8月15日、源頼朝鶴岡八幡宮放生会を催しました。

この放生会が現在の例大祭の起源とされています。




我が国の放生会は、八幡神の神託により744年(天平16年)頃に宇佐八幡宮で始められました。

863年(貞観5年)には石清水八幡宮でも放生会が執り行われるようになり、948年(天暦2年)には勅祭とされました。

頼朝は、石清水八幡宮の放生会を模した大規模な儀式を執り行い、鎌倉武家政権の正当性を誇示しようとしたのかもしれません。



放生会では流鏑馬が奉納されていますが、この時期は奥州平泉藤原秀衡のもとに源義経が逃げ込んだことで秀衡との対立が深まっていました。

流鏑馬は、平泉の秀衡に対しての「武力誇示」と、「鎌倉に弓を引くなら即攻め込む」という強い意志を表したものだったのかも。



鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭

小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮


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源頼朝が始めた流鏑馬神事と西行の教え。




1186年(文治2年)8月15日、東大寺再建のため奥州へ向かう途中の西行が鎌倉を訪れます。

『吾妻鏡』によると、源頼朝鶴岡八幡宮を参拝すると鳥居の辺りを徘徊していたのだとか。

その後、御所に招かれた西行は、一晩に渡って弓馬の故実を語り、翌日、奥州へと旅立っていったのだそうです。

西行は、実戦的な騎射術である流鏑馬を大成させた藤原秀郷の子孫。

流鏑馬は古代から宮廷行事として行われていましたが、秀郷は実戦で勝つための戦闘技術として鍛え上げました。

頼朝は西行から秀郷流流鏑馬の秘訣を学んだということになります。

翌年、頼朝は放生会を催して流鏑馬を奉納していますが、西行の話に感銘を受けて奉納したのだとか。


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鶴岡八幡宮の流鏑馬は頼朝が武家の儀礼・訓練として新しく始めたもの。

宮廷行事としての流鏑馬は、公家風の衣装が用いて行われていましたが、秀郷流を受け継いだ「武士の流鏑馬」では、武士が山野の狩りで着る「狩装束」(かりしょうぞく)で行われました。

現在の鶴岡八幡宮で奉仕される流鏑馬は小笠原流ですが、小笠原流も頼朝によって始められた「武士の流鏑馬」の系譜を引いています。



西行と源頼朝


鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭

小笠原流流鏑馬


鶴岡八幡宮


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