別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年9月16日火曜日

東寺と運慶~東寺の復興:源頼朝と文覚と運慶~




東寺は、796年(延暦15年)、西寺とともに平安京の南の玄関口にあたる羅城門を挟んで左右対称に配置され、東西を守る王城鎮護の官寺として創建されました。

しかし、平安時代末になると、源平の戦い羅城門は崩れ落ち、東寺も衰退の一途をたどります。


『吾妻鏡』によると、源頼朝は荒廃してしまった東寺を修造を文覚に命じています。

そして、諸像修復を手掛けたのは文覚の依頼を受けた運慶でした。



講堂は、空海の立体曼荼羅が安置されている建物。

1197年(建久8年)、東寺諸仏の修復を行った運慶は、仏像15体から真言陀羅尼と仏舎利を発見したのだといいます。




かつての南大門に安置されていた金剛力士像は、1197年(建久8年)に運慶が子の湛慶・康運らを率いて造立したものだったのだと伝えられています。

参考までに、東大寺南大門の金剛力士像は、5年後の1203年(建仁3年)に運慶が一門を率いて造立したものです。

もしかすると、東寺の金剛力士像が基になっているのかもしれません。





東寺



運慶


運慶 祈りの空間


運慶願経








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


東大寺大仏殿にも運慶仏があった!
東大寺大仏殿

東大寺南大門の金剛力士像は
運慶作!
東大寺南大門

興福寺北円堂の
南都焼討後の復興仏は運慶作!
興福寺北円堂


東大寺

興福寺


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2025年9月15日月曜日

供養の場から祈りの空間へ~運慶が魂を込めた七体の仏像~




1180年(治承4年)、平重衡の南都焼討によって焼失した興福寺

北円堂は、それから30年後に再建された。

復興造仏を担当したのは運慶

1212年(建暦2年)、運慶一門が造立したのは、弥勒如来及び両脇侍像、四天王像、無著・世親像だった。

この内、北円堂に残されているのは弥勒如来と無著・世親像。

両脇侍像は失われたが、四天王像は中金堂のものが運慶一門によるものと考えられている。


北円堂興福寺を創建した藤原不比等の一周忌に創建された仏堂。

供養のための仏堂だが、運慶の諸像は「祈りの空間」へと変えた。

弥勒如来は、釈迦の入滅から56億7千万年後に現れるという未来の仏。

無著(むじゃく)・世親(せしん)は、本来の僧侶の姿を現したもの。

四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)は東・南・西・北の守護神。



運慶


興福寺北円堂


東京国立博物館で開催されている「運慶 祈りの空間」では七体の仏像が勢揃い!

運慶 祈りの空間


運慶願経


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2025年9月14日日曜日

源頼朝の三回忌に造立された運慶仏~岡崎市 瀧山寺~




瀧山寺は、源頼朝の従兄弟・寛伝が住持した寺。

寛伝の父は、頼朝の母・由良御前の兄で熱田神宮大宮司・藤原範忠。

少年期に滝山寺に入った寛伝は、由良御前の弟・長暹のもとで天台僧として修行し、後に真言宗の仁和寺で修行を積んだのだといいます。

日光山満願寺(輪王寺)の座主も勤めました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



瀧山寺の縁起によると・・・

聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)の源頼朝の三回忌に運慶とその子湛慶が造立したと伝えらえている。




瀧山寺



運慶


運慶 祈りの空間


運慶願経








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


東大寺大仏殿にも運慶仏があった!
東大寺大仏殿

東大寺南大門の金剛力士像は
運慶作!
東大寺南大門

興福寺北円堂の
南都焼討後の復興仏は運慶作!
興福寺北円堂


東大寺

興福寺


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2025年9月13日土曜日

運慶と鎌倉


(六波羅蜜寺)


運慶は奈良仏師の傍流で、父の康慶から始まる一派は「慶派」と呼ばれました。

慶派の仏師は、1180年(治承4年)の南都焼討で灰燼に帰した東大寺興福寺の仏像の復興事業で活躍。

運慶は・・・

1203年(建仁3年)に東大寺南大門の金剛力士像を造立し、その功績からの僧綱位の極位である法印となります。

僧綱位は、仏師としての地位で下から法橋・法眼・法印。

1212年(建暦2年)には興福寺北円堂の諸仏を造立し、武家の都「鎌倉」にも大きな影響を与えました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・

1216年(建保4年)、源実朝の持仏堂の本尊・釈迦如来

1218年(建保6年)、北条義時大倉薬師堂の薬師如来

1219年(承久元年)、北条政子の依頼による勝長寿院の五大尊像

を造立していますが、残念ながら、これらの仏像は現存していません。

現存しているものとしては、金沢の称名寺大威徳明王

像内文書から1216年(建保4年)に、実朝の養育係だった大弐局の発願で造立されたことが判明しています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


それ以前にも、運慶は鎌倉武士と関係がありました。

北条時政が伊豆に建てた願成就院には、1186年(文治2年)に時政の発願によって造立された諸仏が現存、

和田義盛が横須賀に建てた浄楽寺には、1189年(文治5年)に義盛の発願によって造立された諸仏が現存しています。



願成就院の運慶仏

浄楽寺の運慶仏


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源頼朝はどうだったのか?

1185年(元暦2年)、勝長寿院を建立しますが、鎌倉に呼ばれたのは奈良仏師の正系・成朝でした。

何故、康慶や運慶ではなく成朝に依頼したのか?

それは、頼朝が系統や血筋を重視するタイプだったからと考えられています。

奈良仏師は平等院の阿弥陀如来像を造立した定朝の流れをくむ仏師集団。

成朝は定朝の嫡流でした。

当時、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは運慶の父康慶のみでしたが、それでも頼朝は無位の成朝を選んでいます。


それでは、頼朝は運慶に造仏依頼をしなかったのでしょうか?

1192年(建久3年)、頼朝は永福寺を建立しています。

近年では永福寺の造仏は運慶が担当したのではないかとする説があるようです。

永福寺が建立された年、のちに三代将軍となる実朝が誕生していますが、誕生時の祈願所となった横須賀の曹源寺の十二神将像は運慶周辺の仏師によるものと考えられ、永福寺の薬師堂にあった十二神将像の模刻ともいわれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


日本の各地に運慶作とされる仏像は数多く存在しますが、運慶の真作とされているものは僅か。

鎌倉では・・・

光触寺阿弥陀如来像(頬焼阿弥陀の伝説)

杉本寺十一面観音像 (頼朝寄進の御前立)・地蔵菩薩像・仁王像

教恩寺阿弥陀如来像南都焼討をした平重衡念持仏で頼朝が重衡に与えたものと伝えられています。)

延命寺地蔵菩薩像

補陀洛寺の日光・月光菩薩像

来迎寺の阿弥陀三尊像

英勝寺阿弥陀三尊像

圓應寺閻魔大王像

などが運慶作と伝えられていますが、真作とされたものはありません。




運慶


運慶 祈りの空間


運慶願経








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


東大寺大仏殿にも運慶仏があった!
東大寺大仏殿

東大寺南大門の金剛力士像は
運慶作!
東大寺南大門

興福寺北円堂の
南都焼討後の復興仏は運慶作!
興福寺北円堂


東大寺

興福寺



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2025年9月11日木曜日

ぼたもち寺 常栄寺~龍口法難会~



これやこの
法難の
祖師に
はぎのもち
ささげし
あまが
すみにし
ところ



常栄寺は、1271年(文永8年)の龍ノ口法難の際に、日蓮に「ぼたもち」を捧げたという桟敷の尼が住んでいた地に建てられた寺。

そのため、「ぼたもち寺」と呼ばれています。

9月12日の龍口法難会では、ぼたもち供養が行われます。



ぼたもち供養:常栄寺








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


ぼたもち供養:龍口寺


ご難ぼたもちの伝説

源頼朝の千羽鶴の放生会と桟敷の尼


鶴岡八幡宮例大祭

甘縄神明神社例大祭

面掛行列


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