別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年7月9日木曜日
源頼朝の鶴岡八幡宮新宮若宮
現在の鶴岡八幡宮は、1180年(治承4年)に源頼義が創建した由比若宮を源頼朝が遷座したことに始まります。
遷座した理由は、八幡神を武家の都の中心に据えるため。
武士たちの精神的な団結を図る狙いがありました。
遷座された由比若宮は「鶴岡八幡宮新宮若宮」と呼ばれます。
「新宮」は新たな社殿、「若宮」は石清水八幡宮の分霊を祀った社という意味(現在の摂社若宮とは異なります。)。
遷座された当初は仮殿でしたが・・・
翌年、社殿を本格的に造営し、仮殿から正殿へ新造しました。
新たな社殿は、鎌倉の本格的な街づくり起点となり、翌1182年には参道の若宮大路・段葛、放生池が整備されます。
2026年7月6日月曜日
源実朝の七夕歌は宇宙スケール!
源実朝の七夕歌は、伝統的な王朝文化の七夕とは異なる宇宙スケールの世界。
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こひこひて 稀にあふ夜の 天の川
川瀬のたづは 鳴かずもあらなん
川瀬のたづは 鳴かずもあらなん
天の川 きり立ちわたる 彦星の
つま迎へ舟 はやも漕がなん
つま迎へ舟 はやも漕がなん
彦星の ゆきあひをまつ 久方の
天の川原に 秋風ぞふく
天の川原に 秋風ぞふく
天の川 水泡さかまき ゆく水の
はやくも秋の 立ちにけるかな
はやくも秋の 立ちにけるかな
夕されは 秋風涼し たなばたの
天の羽衣 たちや更ふらん
天の羽衣 たちや更ふらん
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2026年6月30日火曜日
織田信長が関心をもった竹生島の「青葉の笛」~人間五十年・・・~
源頼朝が本拠地とした鎌倉は「天下を収めるのに適した地」
源頼朝は、河内源氏六代棟梁の源義朝の嫡男。
1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、父義朝は尾張国で命を落とし、頼朝は伊豆国に流されました。
それから約20年を伊豆国で流人生活を送っていましたが、1180年(治承4年)8月に源氏再興の挙兵を果たします。
相模国へ進軍後、石橋山の戦いに大敗してしまいますが、安房国に渡って再挙。
下総国・上総国・武蔵国の武士団を率いて10月7日に鎌倉に入ります。
『吾妻鏡』によると、当時の鎌倉は辺鄙な所で、漁師と百姓以外住んでる人が少なかったようですが・・・
それでも「天下を収めるのに適した地だった」ようです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
頼朝に鎌倉を本拠とするよう進言したのは千葉常胤だったといわれています。
常胤は、
「先祖が残した遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適し、陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利であり、兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのまま」
と進言した上で・・・
「鎌倉」を以下のように説明したようです。
☆「鎌倉」という地名は、大織冠藤原鎌足の伝説に由来している。
伝説によると、飛鳥時代の貴族・中臣鎌足は、鹿島神宮を詣でる途中の由比の里(現鎌倉)で、鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まるという夢告を受けたのだとか。
この鎌足の鎌槍伝説は、鎌足がが中大兄皇子(のちの天智天皇)らとともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、大化の改新を断行した直後の646年のもの。
鎌足は669年に亡くなりますが、亡くなる前日に大織冠を授けられ藤原姓を賜ったのだといわれています。
☆鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていた。
鎌足の玄孫といわれる染屋時忠は、飛鳥時代から奈良時代にかけて鎌倉に住んで、関東諸国の総司令官として東国8ヶ国を治め、「由比の長者」と呼ばれていたそうです。
鎌倉最古といわれる甘縄神明神社は時忠の創建と伝えられています。
☆平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となった。
京都で藤原道長や頼通に仕えていた平直方は、鎌倉に所領を与えられ、大蔵の地に屋敷を構えて関東の本拠地としていました。
平直方は、平将門の乱を鎮圧した平貞盛の孫。
直方から鎌倉の地を譲り受けた源頼義は、由比郷に石清水八幡宮の分霊を迎えて由比若宮を創建しています。
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2026年6月27日土曜日
河内源氏~源氏三代(頼信・頼義・義家)と義朝・頼朝と鎌倉
河内源氏の基盤を築いた頼信・頼義・義家は「源氏三代」と称されます。
頼信は藤原道長の四天王の一人に数えられ、房総半島で起こった平忠常の乱を鎮めて源氏の武名を天下に轟かせました。
二代頼義は平直方から鎌倉の地を譲り受け、鎌倉を東国支配の拠点としました。
前九年の役後には鎌倉に京都の石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建。
三代義家は後三年の役を平定。
朝廷からは私闘と判断されて恩賞が与えられませんでしたが、義家は自らの私財をはたいて家来へ恩賞を与えて「武神」と崇められました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
東国の武士団と深く結びつき、武家の棟梁の地位を決定づけた源氏三代ですが・・・
義家の没後は、内紛や不祥事によって朝廷や摂関家からの信頼を失ってしまいます。
一時、鎌倉を拠点に東国武士団と強力な軍事基盤を築いた六代目の義朝が信頼を回復させますが・・・
義朝は1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れて命を落とし、子の頼朝も伊豆に流されて河内源氏は再び滅亡に危機に。
そして、清盛一族(平家・伊勢平氏)の全盛の時代に。
亀谷館
(イメージ図)
義朝は、幼い頃に東国へ下向。
安房国の丸御厨に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたことから「上総御曹司」と呼ばれていました。
成人してからは相模国の沼浜亭(現在の逗子市)を拠点に活動。
のちに先祖ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷に拠点を移し、東国における武士団の組織化と自身の勢力基盤の拡大を図りました。
亀谷館跡には、壽福寺が建てられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
平治の乱後の河内源氏は、七代棟梁となるはずの頼朝は伊豆国の流人となってしまいますが・・・
義朝が築いた東国武士団との強い絆は残されていました。
1180年(治承4年)、頼朝が源氏再興の挙兵をすると、かつて義朝に従っていた東国武士団が大挙して頼朝に味方。
先祖が残した鎌倉に入ります。
鎌倉を本拠地と定めた頼朝は、由比郷にあった鶴岡八幡宮(由比若宮)を鎌倉の中心地に遷座して街づくりの中心に据えました。
1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。
頼朝は父義朝の武力基盤を用いて河内源氏を武士の頂点に返り咲かせています。
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2026年6月18日木曜日
八幡太郎義家氏神~鎌倉最古の甘縄神明神社と八幡神~
(イメージ図)
源氏が鎌倉の地を所領としたのは平安時代中期。
河内源氏の二代棟梁源頼義が相模守に任じられた際、平直方から鎌倉の邸宅や所領を譲り受けたことに始まります(1036年(長元9年)頃)。
同時に直方の娘を妻とした頼義は、甘縄神明神社に子宝に恵まれるよう祈願したのだと伝えられ、1039年(長暦3年)には嫡男となる義家を授かっています。
数えで7歳となった1045(寛徳2年)、義家は父の頼義に伴われて源氏の氏神として信仰されていた京都の石清水八幡宮で元服。
「八幡」の名を授かり、「八幡太郎義家」(はちまんたろうよしいえ)と名乗っています。
1063年(康平6年)、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建しますが、甘縄神明神社の社殿によると、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。
1081年(永保元年)には、義家が由比若宮の社殿を修復していますが、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。
本来、源氏の氏神は八幡神ですが、義家は甘縄神明神社も鎌倉における守護神(氏神)として信仰しました。
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