別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年8月14日金曜日
三嶋大社の祭礼の日に挙兵した源頼朝!
伊豆の流人だった源頼朝が源氏再興の挙兵をした際の最初の相手は、伊豆国の目代(伊豆国における平家の最高責任者)だった山木兼隆ですが・・・
頼朝は山木館襲撃を源氏再興の祈願をしていた三嶋大社の祭礼の日(8月17日)と定めました。
その理由は・・・
「山木館の兵が祭礼に出かけて警備が手薄になるから」
あるいは
「祭礼の雑踏に紛れて進軍することができるため」
などと語られているようですが、本当にそうなのでしょうか?
頼朝の当初の挙兵計画は、8月17日の午前5時頃に挙兵して山木館を急襲するというものでした。
祭礼が始まる前の人々が動き出す前の時刻です。
山木館の兵も出払っていないはずですし、祭礼の雑踏などあり得ない事です。
ただ、挙兵は当初の計画通りにはいかず、午後8時頃の挙兵となりました。
結果的に祭礼の雑踏の中を進軍することになりますが、『吾妻鏡』には「三嶋社の祭礼で大勢の人がいるので、軍勢が通れば怪しまれる」と書かれています。
また、結果的に「山木館の兵も祭礼に出掛けて館が手薄になった」ようですが、当初からそうなると考えていたわけではなさそうです。
では何故、祭礼の日にしたのか?
明確な理由は語れませんが、おそらく、三嶋大社の神の力をお借りするために祭礼の日を選んだのかと。
2026年8月3日月曜日
鎌倉安養院の千手観音の伝説~北条政子祈願の良縁観音~
安養院の千手観音には、北条政子が祈願したという言い伝えがあります。
まだ、源頼朝が伊豆の流人だった頃のお話です。
政子は、千手観音に祈願して流人頼朝と結ばれることができたのだとか。
そのため、安養院の千手観音は「良縁観音」と呼ばれています。
安養院は頼朝亡き後に政子が供養のために建てた長楽寺を前身としている寺。
時代が合わないという疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが・・・
政子が祈願したのが千手観音の胎内に納められている千手観音だったとすれば辻褄が合います。
何故なら、胎内の千手観音は伊豆の豪族田代信綱の持仏だったものだから。
千手観音イメージ図
田代信綱の千手観音は、伊豆の叢林寺に祀られていましたが、頼朝によって鎌倉に武家の都が築かれると、信綱は鎌倉に田代寺を建てて千手観音を移したのだと伝えられています。
江戸時代に田代寺が焼失したため、安養院の千手観音の胎内に納められたのだとか。
8月10日は四万六千日。
観音菩薩の特別な縁日です。
坂東札所三番の安養院は
午前5時開門
午前9時まで自由拝観。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
鎌倉の夏
2026年7月28日火曜日
鶴岡八幡宮一の鳥居の創建はいつ?
2026年7月26日日曜日
弦巻田を放生池にした源頼朝~鶴岡八幡宮源平池~
『吾妻鏡』によると、1182年(養和2年)4月24日、源頼朝は鶴岡八幡宮の周辺にあった「絃巻田」という水田を池としています。
「絃巻田」は、神へ捧げる為の米を栽培する斎田で、苗を渦巻き状に植える水田と考えられています(諸説あり)。
もしかすると、源頼義が由比郷に建てた由比若宮の神に供える米を栽培していた可能性も。
頼朝は造営したのは、「捕らえた魚や鳥などの生き物を殺さずに自然の川や池に放す」という仏教の教えである「放生」や「放生会」を行うための放生池です。
生き物を放つ行為は、自らの罪を清め、功徳(善い行い)を積むためのもの。
頼朝は、1180年(治承4年)に由比若宮を現在地に遷座していますが、戦による戦死者の供養と源氏の繁栄を祈願するため、わざわざ神の水が湧く地を選んだのかもしれません。
そして、1187年(文治3年)には、大規模な放生会を催しています。
この放生会が現在の鶴岡八幡宮例大祭の起源といわれています。
鶴岡八幡宮の太鼓橋~赤橋と呼ばれていた橋~
2026年7月25日土曜日
2026年7月9日木曜日
源頼朝の鶴岡八幡宮新宮若宮
2026年7月6日月曜日
源実朝の七夕歌は宇宙スケール!
源実朝の七夕歌は、伝統的な王朝文化の七夕とは異なる宇宙スケールの世界。
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こひこひて 稀にあふ夜の 天の川
川瀬のたづは 鳴かずもあらなん
川瀬のたづは 鳴かずもあらなん
天の川 きり立ちわたる 彦星の
つま迎へ舟 はやも漕がなん
つま迎へ舟 はやも漕がなん
彦星の ゆきあひをまつ 久方の
天の川原に 秋風ぞふく
天の川原に 秋風ぞふく
天の川 水泡さかまき ゆく水の
はやくも秋の 立ちにけるかな
はやくも秋の 立ちにけるかな
夕されは 秋風涼し たなばたの
天の羽衣 たちや更ふらん
天の羽衣 たちや更ふらん
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