別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年12月29日日曜日

紫式部邸跡の蘆山寺で厄除け



蘆山寺は、慈恵大師良源(元三大師)が船岡山の南麓に創建したことに始まる寺院。

天正年間、現在地に移転しますが、紫式部の邸跡と言われています。

良源は、廃れていた比叡山横川を復興。

それを援助したのが藤原師輔(藤原道長の祖父)でした。



角大師

角大師は、疫病に苦しむ人々を救うため禅定に入り、骨ばかりになって鬼の姿になった良源を弟子の明普阿闍梨が写しとったもの。

その絵を見た良源は、お札(護符)にして配らせ病魔を退散させたのだと伝えられています。

あらゆる病気の平癒と厄難の消除に御利益がある角大師の護符は、蘆山寺でも授与されています。












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紫式部


紫式部の京都

琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地



都七福神


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2024年12月27日金曜日

東寺の兜跋毘沙門天~都七福神~




東寺兜跋毘沙門天は、939年(天慶2年)の平将門の乱の際に都の守護神として平安京の羅城門の上層に安置されたという像。

羅城門は、かつて朱雀大路(平安京のメインストリート)の南端に建てられていた大門。

兜跋毘沙門天は、980年(天元3年)に倒壊した羅城門の瓦礫の中から彫り出されたものと伝えられています。



東寺毘沙門堂は、国宝の兜跋毘沙門天を安置するために建てられた堂。

ただ、現在は宝物館に安置されています。

兜跋毘沙門天都七福神めぐりの福神の一人。



京都は七福神発祥の地
都七福神









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紫式部の京都


琵琶湖で紫式部・源氏物語


源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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2024年12月23日月曜日

蛇と亀の霊獣・玄武がいる紫式部ゆかりの紫野


船岡山

紫式部が生まれ育った地とされる紫野は、平安京を守護する玄武の山として崇められた船岡山の麓。

船岡山の東麓には紫式部の墓所玄武神社があります。



紫式部は晩年を紫野で過ごしたのだといわれています。


玄武神社

玄武神社は平安京北方の守護神。



玄武とは、四方の方角を司る霊獣の一つで北方の守護神。

一般的に脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿をしています。


2025年(令和7年)は巳年(蛇年)。

紫式部ゆかりの紫野をめぐりながら、蛇に関係する社に詣でるのもいいかもしれません。


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大徳寺の塔頭真珠庵には、「紫式部産湯の井」があるそうです。




雲林院は淳和天皇(在位・823ー833)の離宮・紫野院として造営されたのが始まり。

現在は大徳寺の境外塔頭となっていますが、大徳寺は衰退してしまった雲林院の敷地内に建てられた寺です。

『源氏物語』の主人公・光源氏が参籠した寺。

紫式部は、晩年は雲林院百毫院で過ごしたのだとか。

清少納言の『枕草子』によると、雲林院知足院賀茂祭の行列見物の名所となっていたようです。



今宮神社は、一条天皇の時代に疫病退散のために船岡山で行われた「紫野御霊会」 に始まる社。

紫式部が20歳前後の頃の正暦年間(990-995)、都では疫病が大流行。

一条天皇も疱瘡に罹患したといわれています。

疫病の流行は長徳年間(995-999)、長保年間(999-1004)まで続き、紫式部の夫藤原宣孝も疫病で亡くなったようです。



賀茂斎院跡
(檪谷七野神社)

賀茂神社(上賀茂神社下鴨神社)に巫女として奉仕した斎王の住まい・賀茂斎院紫野にありました。

紫式部の時代の斎王は、村上天皇の第十皇女・選子内親王

歴代最長の期間を斎王であり続け、大斎院と称されました。

毎年5月に開催されている葵祭は、上賀茂神社下鴨神社の祭礼。

清少納言の『枕草子』や紫式部『源氏物語』にも描かれた斎王主宰の王朝行事。

古くは賀茂祭と呼ばれていました。





紫式部の京都


琵琶湖で紫式部・源氏物語


葵祭


『源氏物語』~葵の巻~

賀茂祭の還御の行列「いとをかし」









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祇園祭

時代祭


紫式部年表


都七福神


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2024年12月18日水曜日

大蛇を祀る百々神社には紫式部の歌碑がある!2025年は巳年。




近江八幡市にある百々神社は、人々を悩ませて退治された大蛇を祀る社。

蛇除け、喘息封じの神として信仰されているようです。

ただ、2025年は蛇年。

密かに注目を集めるのかも。


紫式部歌碑

社前には紫式部が詠んだ

「おいつしま 守りの神や いますらん 波もさわがぬ わらわえの浦」

の歌碑が建てられています。

この歌は、越前国から帰京するときに沖島を望んで詠んだとされる歌。













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琵琶湖で紫式部・源氏物語


紫式部と越前国

紫式部の越前下向


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2024年12月17日火曜日

嵐が来るわ!道長の死と武士の台頭。~光る君へ~


大河ドラマ「光る君へ」の最終回では、藤原道長が最期を迎える時、紫式部は道長に「戦のない泰平の世を護られました」と語っていました。

ただ、最後の言葉は「嵐がくるわ」でした。


1027年(万寿4年)12月4日、道長が薨去すると、翌年、東国では平忠常が反乱を起こします(平忠常の乱)。

忠常は高望王流桓武平氏

「光る君へ」に登場した双寿丸が仕えた平為賢と同族。

東国で「新皇」を称して反乱を起こし、940年(天慶3年)に平貞盛と藤原秀郷らに討ち取られた平将門の孫。

将門以来の大規模な反乱となった平忠常の乱は、摂関政治を終わらせるきっかけとなります。

これは、道長の時代に起こった刀伊の入寇での朝廷の無策と、活躍した武者(のちの武士)たちの恩賞が不十分であった事が原因の一つと考えられています。


平忠常の乱を鎮めたのは、経基流清和源氏の一流河内源氏の祖源頼信

頼信は、道長四天王の一人でした。

1051年(永承6年)には、陸奥国で勢力を広げていた安倍頼良と陸奥守・藤原登任の間で戦いが起こりますが、この反乱を鎮めたのは、河内源氏二代棟梁の頼義とその子義家(前九年の役)。

義家は、その後の後三年の役(1183-1087)でも活躍しますが、朝廷は私闘と判断して恩賞を与えなかったたため、義家は従軍した坂東武者たちに私財から恩賞を与えて「武神」と称えられています。

そして、1086年(応徳2年)、白河上皇が院政を開始し、200年以上続いた摂関政治が終わります。

ただ、院政期に特別な扱いを受けたのは、東国の反乱に活躍した河内源氏ではなく、伊勢平氏でした。

伊勢平氏も高望王流桓武平氏

伊勢国を拠点とした一族ですが、地盤を築いたのは道長四天王の一人だった平維衡。

そして、子孫の平清盛が1159年(平治元年)の平治の乱源義朝を倒したことで源氏は没落し、平氏の勢力が拡大されます。

清盛は、後白河院政下で武士としては初めてとなる太政大臣となり、さらに我が国初の武家政権を樹立しました。

それは源頼朝の武家政権へと繋がっていくことになります。


参考までに・・・

頼朝は、平忠常の乱を鎮圧した源頼信から数えて七代目。

平治の乱後、頼朝は処刑される運命にありましたが、それを救ったのが清盛の継母池禅尼でした。

池禅尼刀伊の入寇で活躍した藤原隆家の子孫。

頼朝とともに鎌倉に武家政権を創った北条時政政子義時は、高望王流桓武平氏の平直方の子孫といわれています。

頼朝の源氏再興の挙兵を援けた房総半島の千葉常胤上総広常は、平忠常の子孫でした。




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藤原道長

藤原彰子









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