別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


ラベル 紫式部 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 紫式部 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年10月30日水曜日

三条天皇の「夜半の月」と藤原道長の「望月」





三条天皇藤原道長

権力を争ったこの二人は、それぞれに夜空に浮かんだ美しい月を見ました。

しかし、その眺め方と思った事は対照的でした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


三条天皇冷泉天皇の第二皇子。

母は藤原兼家の長女・藤原超子藤原道長の姉)。

東宮(皇太子)の時代が長く、1011年(寛弘8年)に一条天皇から譲位されたときは30代の半ば。

この時代は摂関政治の最盛期。

天皇が朝廷の政務に要望をしないことが前提で、幼い天皇が望まれていた時代。

しかし、三条天皇は人生の経験を積んで世の中の道理が最もよくわかる年ごろ。

絶大な権力を誇っていた外叔父の藤原道長と対立することに。

1014年(長和3年)、三条天皇は眼病を患いますが、自分の娘・彰子が生んだ敦成親王を即位させたい道長は、それを理由に退位を迫ります。

内裏の焼亡も重なって道長との権力闘争に疲れ果てた三条天皇は、1016年(長和5年)、美貌だったという皇后宮・藤原娍子が生んだ敦明親王を皇太子とすることを条件に譲位。

退位する直前に詠んだのが

心にも
あらでうき世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな


「心ならずもつらい現世で生き長らえているならば・・・

さぞかしここで眺めた夜更けの月が恋しく思いだされることであろう」

「死んでしまいたい」と思いながら詠んだ歌のようですが、三条天皇は翌年に崩御。


一方、道長は・・・

三条天皇の譲位により、外孫で8歳の後一条天皇が誕生すると、摂政となって権勢を奮い、敦明親王に皇太子を辞退させ、後一条天皇の弟・敦良親王を皇太子とすることに成功。

そして、1018年(寛仁2年)、四女の威子が後一条天皇の中宮(皇后)となると・・・

三后のすべてを我が娘で占めるという前代未聞の偉業を達成(太皇太后は長女の彰子・皇太后は次女の妍子)。

詠んだ歌が

この世をば
わが世とぞ思ふ
望月の
かけたることも
なしと思へば


「この世で自分の思うようにならないものはない。

満月に欠けるもののないように・・・」





夜半の月


望月の歌



紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


よりともジャパン.com


皇后宮娍子の立后の儀と藤原道長


1012年(寛弘9年)、藤原道長三条天皇に入内していた次女の妍子を中宮としましす。

一方、道長と不和だった三条天皇は、妍子より先に入内して第一皇子の敦明親王を生んでいた娍子を皇后宮としました。

これにより、絶大な権力を誇っていた道長と天皇親政を目指す三条天皇との対立が決定的となります。


娍子の立后の儀式の日・・・

道長

「同日は中宮妍子の参内の日である」

として出席せず、多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に行ってしまったのだとか。

道長の嫌がらせによって、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったらしい。


📎皇后宮娍子の立后と中宮妍子の参内~三条天皇と藤原道長の対立~



紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


よりともジャパン.com


2024年10月29日火曜日

賢子が連れてきた双寿丸のモデルは藤原兼隆?~光る君へ~


大河ドラマ「光る君へ」では、双寿丸という男が紫式部の娘・賢子と恋仲になるような気配ですが・・・

双寿丸は平為賢の従者で、賢子を盗人から救ったことで、屋敷に出入りするようになります。

実在した人物ではないようですが、どういう人物をモデルに描かれているのでしょうか?


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


平為賢は1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇で活躍した武者。

妻は高階成順の娘(大姫御前と呼ばれていたらしい。)。

高階氏といえば、藤原伊周隆家兄弟の母貴子がいますが、成順は貴子の兄弟・明順の子。

つまり大姫御前は貴子の姪孫(てっそん・甥の子)にあたります。

そして、為賢が活躍した刀伊の入寇の総指揮官は隆家


賢子は1017年(長和6年)頃から、皇太后・藤原彰子のもとに出仕します。

そして、藤原道兼の次男・兼隆と結婚します。

兼隆は貴子の義甥(ぎせい・義兄弟の子)。


高階貴子つながりからすると、双寿丸は藤原兼隆をモデルとしているのかも。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


賢子は恋多き女性だったといわれ、藤原道長の次男・頼宗、藤原公任の長男・定頼とも交際していたといわれています。

そして、高階成章とも結婚しています。

成章は貴子の従甥(じゅうせい・従兄弟の子)。

ただ、結婚したのは、1025年(万寿2年)に賢子後冷泉天皇の乳母に任ぜられた後で、1037年(長暦元年)頃といわれているので、少し無理があるのかもじれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

参考までに、平為賢は常陸国筑波郡多気を拠点としていた平維幹(多気氏の祖)の四男。

『宇治拾遺物語』によると、妻の大姫御前は、維幹が上洛した時に盗み、常陸国へ連れ帰った娘なのだとか。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


よりともジャパン.com


2024年10月28日月曜日

光源氏と敦明親王がなった准太上天皇と源氏物語


『源氏物語』光源氏藤壺の不義の子として登場する冷泉帝は、光源氏を「太上天皇になずらふ御位」としました。

「太上天皇になずらふ御位」とは、太上天皇(上皇)に准じた待遇ということ。

「准太上天皇」とも呼ばれます。

では、歴史上で准太上天皇となった人物はいるのか?

1017年(寛仁元年)に三条天皇の第一皇子・敦明親王がなっているようです。

紫式部敦明親王の准太上天皇を参考に光源氏の准太上天皇を書いたとも考えられますが・・・

『源氏物語』は1017年にまだ完成していなかったのでしょうか?

『紫式部日記』によると、1008年(寛弘5年)に藤原彰子『源氏物語』と思われる冊子を作って一条天皇に献上しているので、1008年には大部分が完成していたのかと・・・

ということは、敦明親王の准太上天皇は『源氏物語』を参考にしたのかも。

※1017年に紫式部が生存していたかどうかも不明です。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


よりともジャパン.com