別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2025年12月19日金曜日

2026鶴岡八幡宮の節分祭 年男・年女募集中!


2026年(令和8年)の節分は2月3日(火)。

鶴岡八幡宮では午後1時から節分祭が執り行われますが、参列の希望者(年男・年女の方)を募集しています。

初穂料 3万円
締 切 1月25日(日)




申込みは、「節分祭厄除撒豆申込書」を印刷して、初穂料を添えて社務所に提出。


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鶴岡八幡宮の節分祭

鶴岡八幡宮の豆まきは、午後1時から本宮で節分祭が行われた後、大石段を大紋衣装の年男・年女が舞殿(下拝殿)へと下りてきて行われます。


鳴弦の儀

豆まきに先立っておこなわれる鳴弦の儀は、弓の弦を鳴らして悪鬼邪霊を追い払う儀式。




節分・豆まき:鶴岡八幡宮


鶴岡厄除大祭


鶴岡八幡宮


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鎌倉検定 鶴岡八幡宮の春の流鏑馬


【問】
鶴岡八幡宮で春に流鏑馬が行われるのはいつか。


1 4月第一日曜日
2 4月第二日曜日
3 4月第三日曜日
4 4月第四日曜日


この問題は、過去にも何度か出題されていますが、おそらく、鎌倉まつりの最終日(4月第三日曜日)に行われていた武田流流鏑馬に関する出題かと思われます。

鎌倉まつりは、4月の第二日曜日から第三日曜日の開催が恒例となっている鎌倉市観光協会主催の祭ですが・・・

ここ数年、武田流流鏑馬の奉仕はありませんでした。

2025年(令和7年)は、4月20日(第三日曜日)に鶴岡八幡宮崇敬者大祭が行われ、小笠原流流鏑馬が奉仕されています。

鶴岡八幡宮崇敬者大祭は、崇敬者(槐の会)の祭典で、10月初旬に開催されていましたが、4月に変更されたようです。

鶴岡八幡宮のホームページにも4月下旬に開催されることが記されています。

ということは、今後も鎌倉まつりの武田流流鏑馬は行われないのかもしれません。


正解は3のようですが・・・

鎌倉まつりの開催期間は毎年決定されているものですし、鶴岡八幡宮崇敬者大祭も4月第三日曜日執行と発表されているわけではないようです。


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小笠原流・流鏑馬

鶴岡八幡宮流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日に源頼朝が催した放生会で奉納されたことに始まるといわれています。

毎年9月の例大祭では小笠原流流鏑馬が奉仕されていますが、小笠原流流鏑馬は小笠原氏の祖小笠原長清からの受け継がれた伝統技術。

小笠原氏は甲斐源氏。

長清は、源頼朝の弓馬礼法の師範となったと伝えられ、従兄弟の武田信光・信濃国の海野幸氏望月重隆とともに弓馬四天王と称されました。




鎌倉まつりで奉仕されてきた武田流流鏑馬は、武田信光を祖とする安芸武田氏に伝えられ、その後、若狭武田氏、細川家、竹原家と継承されてきました。




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小笠原流流鏑馬

武田流流鏑馬


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鶴岡八幡宮


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鎌倉検定 北条政子と源実朝の五輪塔~壽福寺の創建者は誰?~


【問】
壽福寺の墓地にある五輪塔は,源実朝とだれの墓と伝えられているか。

(第19回3級)


壽福寺には、北条政子源実朝の墓と伝えられている五輪塔があります。


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北条政子は、1225年(嘉禄元年)7月11日に逝去。

勝長寿院で荼毘に付されたのだと伝えられています。



源実朝の五輪塔


源実朝は、1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されました。

遺体は勝長寿院に葬られましたが、首は波多野の地に葬られたのだと伝えられています。


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『吾妻鏡』の記録からすると、北条政子源実朝勝長寿院に葬られたようですので、壽福寺の五輪塔は、供養塔として建てられたものと考えられます。

ただ、政子と実朝のものと断定されているわけではありません。

壽福寺は政子が創建したと伝えられる寺。

実朝は開山の栄西に帰依し、壽福寺の実朝の位牌には「当寺大檀那」と記されているようです。

そのため、二つの五輪塔が政子と実朝のものと伝承されてきたのかもしれません。


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壽福寺

一般的に、壽福寺北条政子源頼朝の菩提を弔うために創建した寺院とされていますが、嫡男の源頼家が創建したという説も有力です。

『吾妻鏡』によると壽福寺が建てられたのは1200年(正治2年)。

前年に頼朝が亡くなり、家督を相続していたのは頼家

「壽福寺由緒書」には、「開基は頼朝公草創の本願にて頼家公創建」と記されているようです。

ただ、『吾妻鏡』には、政子が源義朝(頼朝の父)の遺跡に壽福寺を建立しようとして、二階堂行光と三善康信(善信)に亀ヶ谷の地を巡検させ、逗子の沼浜亭(義朝の館)を壽福寺に移して与えたことなどが記されていることから、建立を主導したのは政子であることは間違いないようです。

当時の慣習として、頼朝の菩提を弔うためのような公的な寺院の建立には、家督を継いだ頼家の承認が必要だったと思われます。

また、経済的援助も必要だったでしょうから、開基の名義も頼家になったのかもしれません。

頼家は、1203年(建仁3年)に比企能員の変で伊豆の修禅寺に幽閉されて、翌年暗殺されています。

歴史に「もしもはない」と言われますが、もしも頼家が何事のなく将軍を務めていたとしたならば、壽福寺の大旦那は実朝ではなく頼家だったのでしょう。

実朝のものと伝えられる五輪塔も「源頼家の五輪塔」になっていたのかも・・・


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建仁寺法堂

1202年(建仁2年)創建という京都の建仁寺の開基も源頼家のようですが、実質的な創建者は開山の栄西だったようです。


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他にもある北条政子と源実朝の墓


北条政子の宝篋印塔
(安養院)

安養院は、北条政子源頼朝の菩提を弔うために建てたという笹目長楽寺をその前身としているといいます。

安養院本堂の裏には、北条政子のものと伝わる宝篋印塔が建てられています。



源実朝御首塚
(秦野市 金剛寺)

暗殺された源実朝の首を葬ったことがそのはじまりとされる秦野市の金剛寺の近くには、源実朝公御首塚があります。

もとは「木造の五輪塔」が建てられていましたが、その五輪塔は鎌倉国宝館に寄託されています。




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寿福寺


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2025年12月18日木曜日

鎌倉検定 八雲神社と須佐之男命


【問】
次の表は,鎌倉市内にある神社とその祭神や鎮守地についてまとめたものである。次の①~⑥にあてはまる語句を,漢字で書きなさい。

(第19回1級)



【答】
① 蛭子神社
② 大町
③ 須佐之男命
④ 八坂大神
⑤ 日野俊基
⑥ 熊野新宮



【問】
鎌倉最古の厄除け神社として知られるのはどこか。

(第19回2級)

【答】
八雲神社(大町)


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大町の八雲神社は、新羅三郎義光が京都の祇園八坂社(現在の八坂神社)の祭神を勧請して建立した社。

祭神は・・・

須佐之男命
(すさのおのみこと)
稲田比売命
(いなだひめのみこと)
八王子命
佐竹氏の御霊


何故、須佐之男命なのか?

かつての八雲神社の名称は「鎌倉祇園社」で「お天王さん」の愛称で親しまれてきました。

それは鎌倉祇園社が祇園精舎の守護神・牛頭天王が祀る社だったから。

明治の神仏分離によって仏教の神である「牛頭天王」や仏教用語の「祇園」が除かれました。

現在の祭神・須佐之男命は牛頭天王と同一視されてきた神。


何故、鎌倉最古の厄除け神社なのか?

新羅三郎義光が勧請した祇園八坂社は、平安時代に疫病退散を目的に発展した祇園信仰発祥の社。

日本三大祭の一つとされる祇園祭は疫病退散のために始まった祭礼です。

祇園信仰は、疫病退散・厄除けを願う信仰で、祇園祭では厄除けのお守り「粽」が授与されています。

八雲神社の祭礼大町まつりは、「天王祭」「祇園祭」とも呼ばれています。

山ノ内の八雲神社例大祭も「天王祭」と呼ばれる祇園信仰の祭礼です。


1級の問題では、扇ヶ谷の八坂大神と極楽寺の熊野新宮にも須佐之男命を書き入れるようになっていますが・・・

八坂大神は八雲神社と同じ祇園信仰の神社。

熊野新宮には極楽寺にあった八雲神社が合祀されています。




八雲神社の社名は、祭神の須佐之男命が詠んだ最古の和歌「八雲立つ 出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を」に因むもの。





大町八雲神社


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鎌倉検定 光明皇后が建立させた杉本寺の本堂


【問】
観音様のお告げを受けた光明皇后が本堂を建立したと伝わる寺院はどこか。

(第19回3級)


杉本寺は、行基開山と伝えられる鎌倉最古の寺。

本堂は、観音菩薩のお告げにより、光明皇后が藤原房前と行基に建立させたのだと伝えられています。


杉本寺観音堂

現在の本堂は、1678年(延宝6年)の再建。


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光明皇后は、藤原不比等の娘で、聖武天皇の妃となりました。

聖武天皇とともに仏教を深く信仰し、特に観音菩薩に帰依していたことで知られます。

京都の清水寺にある子安塔は、聖武天皇と光明皇后が御子の誕生を祈願し、無事に安産できたことから建立されたのだと伝えられています。

子安塔の本尊は千手観音。

源義経の母常盤御前が信仰していた事でも知られています。

奈良の法華寺は、聖武天皇が国家鎮護のため建立させた国分尼寺の総本山だった寺院で、本尊の十一面観音は光明皇后の姿を模して造立されたのだと伝えられています。


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杉本寺の本堂を建立したという藤原房前は光明皇后の兄。

杉本寺と同じ坂東札所の長谷寺は、房前の開基といわれています。

行基は、東大寺大仏(奈良の大仏)建立の勧進を任された僧。

東大寺は、聖武天皇と光明皇后が夭折した皇子の追善のために建てた寺が始まりです。




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