1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は鶴岡八幡宮で放生会を催します。
その際、由比ヶ浜では千羽鶴の放生が行われたという言い伝えがありますが・・・
その千羽鶴の放生会を頼朝が観覧するための桟敷(展望台)があった場所が、現在の常栄寺の裏山だったのだと伝えられています。
この文治3年に誕生したのが、後に頼朝の桟敷を管理するようになる桟敷の尼なのだとか。
後世の創作である可能性が極めて高い伝承ですが、この伝承には1271年(文永8年)の日蓮の龍ノ口法難が関係しています。
頼朝の千羽鶴の放生会は、江戸時代後期になると浮世絵に描かれるようになります。
その頃に生まれたのが龍ノ口刑場へ護送される途中の日蓮に、信者の桟敷の尼が胡麻の餅を捧げ、日蓮が奇跡的に処刑を免れたというドラマチックな物語。
この話が各地で語り継がれるようになり、最終的には鎌倉時代の偉人・源頼朝が催した鶴岡八幡宮の放生会と結び付けられて語られるようになったのかもしれません。
桟敷の尼は、日蓮の本物の手紙の中にも書かれている人物なので、鎌倉に実在したことは確かなようですが・・・
桟敷の尼の伝承が伝説の域を出ないとすると、「桟敷」とは何なのか?
日蓮は、信者を呼ぶときは本名ではなく、住んでいる地名を冠していたようなので、桟敷とは、頼朝の展望台のことを言っているのではなく地名のことのようです。
では「桟敷の尼」とは誰のことか?
一つは、日蓮の直弟子六老僧の一人で、材木座の実相寺を開いた日昭の母親とする説。
もう一つは、日昭の兄・印東祐信の妻とする説。
常栄寺では後者をとっているようですが、どちらの説にしても・・・
龍ノ口法難後の日蓮を支え続けてきた熱心な信者。
頼朝が伊豆に流された際に、その生活を支え続けてきた比企の尼をはじめとする乳母のような存在だったのかもしれません。
日蓮が鎌倉で説いた法華経は、人間だけでなく動物なども含めたすべての命が仏になれることを説いたもの。
頼朝が催した鶴岡八幡宮の放生会は、捕らえられた魚や鳥などの生きものを野外や海に放ち、殺生を戒めて命を救う法会で、法華経の思想が強く影響されている儀式です。
法華教信者であり観音信者だった頼朝は、伊豆の流人時代には毎月18日の観音菩薩の縁日に放生を欠かさなかったのだといいます。
鎌倉は、その法華教信者だった頼朝が創った武家の都、日蓮はそこで法華経こそ真の教えと説きました。
「頼朝が千羽鶴の放生会を観覧するために作った桟敷に、後に桟敷の尼という法華教信者が住み着き、日蓮のために胡麻の餅を捧げた」という桟敷の尼の伝説は、頼朝と日蓮の法華経の因縁から生まれたものだったのかもしれません。
参考までに、常栄寺の伝承では、桟敷の尼は比企の尼の養子となった比企能員の妻の妹とされています。
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