源頼朝は、河内源氏六代棟梁の源義朝の嫡男。
1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、父義朝は尾張国で命を落とし、頼朝は伊豆国に流されました。
それから約20年を伊豆国で流人生活を送っていましたが、1180年(治承4年)8月に源氏再興の挙兵を果たします。
相模国へ進軍後、石橋山の戦いに大敗してしまいますが、安房国に渡って再挙。
下総国・上総国・武蔵国の武士団を率いて10月7日に鎌倉に入ります。
『吾妻鏡』によると、当時の鎌倉は辺鄙な所で、漁師と百姓以外住んでる人が少なかったようですが・・・
それでも「天下を収めるのに適した地だった」ようです。
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頼朝に鎌倉を本拠とするよう進言したのは千葉常胤だったといわれています。
常胤は、
「先祖が残した遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適し、陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利であり、兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのまま」
と進言した上で・・・
「鎌倉」を以下のように説明したようです。
☆「鎌倉」という地名は、大織冠藤原鎌足の伝説に由来している。
伝説によると、飛鳥時代の貴族・中臣鎌足は、鹿島神宮を詣でる途中の由比の里(現鎌倉)で、鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まるという夢告を受けたのだとか。
この鎌足の鎌槍伝説は、鎌足がが中大兄皇子(のちの天智天皇)らとともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、大化の改新を断行した直後の646年のもの。
鎌足は669年に亡くなりますが、亡くなる前日に大織冠を授けられ藤原姓を賜ったのだといわれています。
☆鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていた。
鎌足の玄孫といわれる染屋時忠は、飛鳥時代から奈良時代にかけて鎌倉に住んで、関東諸国の総司令官として東国8ヶ国を治め、「由比の長者」と呼ばれていたそうです。
鎌倉最古といわれる甘縄神明神社は時忠の創建と伝えられています。
☆平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となった。
京都で藤原道長や頼通に仕えていた平直方は、鎌倉に所領を与えられ、大蔵の地に屋敷を構えて関東の本拠地としていました。
平直方は、平将門の乱を鎮圧した平貞盛の孫。
直方から鎌倉の地を譲り受けた源頼義は、由比郷に石清水八幡宮の分霊を迎えて由比若宮を創建しています。
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