鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、1186年(文治2年)、西行から弓馬の故実や秘訣を聞いた源頼朝が、翌年の放生会で奉納したことに始まるのだと伝えられています。
頼朝が西行から聞いた弓矢術とは?
頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を始めてから半世紀が経った『吾妻鏡』(1237年(嘉禎3年)7月19日条)には、三代執権北条泰時が弓馬の名人である海野幸氏に孫の時頼の流鏑馬の指導を求めた時の事が記録されています。
この時、幸氏は頼朝の時代を回想して語りますが、その内容は・・・
当時は、弓に矢を番える(つがえる)際に「弓を一文字に持つ(地面と水平に持つ)」ことが作法だったようですが、西行は「一文字(真横)に寝かせてしまうと、矢を番えた後に『弓を垂直に立ち上げて、引き絞る』という次の動作へ移るのが遅れてしまうので、弓の上部を斜め上に向けた状態で矢を番えるべき」と説いたのだとか。
この教えには、それまで弓を一文字に持っていた下河辺行平・工藤景光・和田義盛・望月重隆・藤沢清親・諏訪盛澄・愛甲季隆などの弓の名手も「確かにその方が圧倒的に速く射れる!」と納得したのだと伝えられています。
弓の上部を斜め上に向けた状態
(イメージ図)
流鏑馬で使用する弓は2メートル以上。
そのため、鎌倉武士たちは、風の影響を受けないように、あるいは、馬の首にあたらないようにするなどの理由から、地面と水平に弓を構えて矢を番えていたのだそうです。
西行が頼朝に語った弓馬術は、西行の先祖藤原秀郷が大成させた実戦的な武家兵法。
西行は「弓を一文字に持つ」ことの不適切さとともに、「臨戦態勢」としての緊張感や美しさに欠けるとも説いています。
弓馬の作法は、「心構え」や「威厳」を神仏や主君に示すものであるので、弓を水平に寝かせている状態では、「すぐにすぐに射るようには見えず、礼儀に外れたものだ」と指摘したようです。
鶴岡八幡宮の例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。
西行が頼朝に語った「無駄のない動きと美しさ」が組み込まれた弓馬術です。
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