(イメージ図)
由比若宮は、
鶴岡八幡宮の元宮。
1063年(康平6年)に河内源氏二代棟梁の
源頼義が氏神である京都の
石清水八幡宮を勧請して創建した神社と伝えられています。
河内源氏は河内国石川郡壺井(現在の大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とした清和源氏の一流。
何故、河内源氏の頼義が鎌倉に
石清水八幡宮の分霊を迎えたのか?
それには、平安時代に鎌倉を所領としていた武者たちの歴史が関係しています。
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平安時代中期の鎌倉は、桓武平氏が治める地でした。
京都で
藤原道長や頼通に仕えていた平直方は、鎌倉に所領を与えられ、大蔵の地に屋敷を構えて関東の本拠地としました。
同時期、甘縄には平良文を祖とする鎌倉氏が屋敷を構えていました。
平直方は、摂関家に仕える「在京軍事貴族」。
鎌倉氏は、在庁官人(在地豪族)。
両者は異なる拠点や役割を持って多層的に鎌倉を支配していたようです。
その平安時代中期の1028年(長元元年)に起こったのが、房総平氏の祖平忠常の反乱(平忠常の乱)。
朝廷から追討使として派遣されたのは平直方でした。
直方は鎌倉を拠点にして鎮圧しようとしますが苦戦。
戦闘が長期化し、房総地方は荒廃を極めてしまいます。
1030年(長元3年)、朝廷は直方を更迭し、河内源氏の棟梁源頼信を後任に抜擢。
翌年、頼信が現地に赴くと、忠常は戦わずして降伏。
東国の大武士団を屈服させたことで、頼信の武名は東国や朝廷に一躍轟き渡ることになります。
一方、直方は武人としての名誉を失い、関東における平氏の勢力は失墜。
河内源氏が東国武士団を従え、勢力を拡大することとなりますが・・・
直方は、源氏の台頭を認め、頼信の一族に臣従する道を選択。
頼信の嫡男源頼義に自分の娘を嫁がせ、東国の拠点としていた鎌倉の大蔵邸や所領を頼義に譲り渡しました。
これにより、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となります。
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1051年〜1062年にかけて、陸奥国で発生した大規模な戦乱(前九年の役)では、頼義は鎮守府将軍として赴任しますが・・・
鎌倉をはじめとする東国武士団を動員・招集して前線へ送り込んでいます。
前九年の役の平定後、頼義はその勝利に感謝するため、鎌倉に源氏の氏神である
石清水八幡宮を鎌倉に勧請(神の分霊を迎えること)したのだと伝えられています。
1081年(永保元年)には頼義の子義家が社殿を修復しています。