別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2026年6月27日土曜日

河内源氏~源氏三代(頼信・頼義・義家)と義朝・頼朝と鎌倉




河内源氏の基盤を築いた頼信・頼義・義家は「源氏三代」と称されます。

頼信は藤原道長四天王の一人に数えられ、房総半島で起こった平忠常の乱を鎮めて源氏の武名を天下に轟かせました。

二代頼義は平直方から鎌倉の地を譲り受け、鎌倉を東国支配の拠点としました。

前九年の役後には鎌倉に京都の石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建。

三代義家は後三年の役を平定。

朝廷からは私闘と判断されて恩賞が与えられませんでしたが、義家は自らの私財をはたいて家来へ恩賞を与えて「武神」と崇められました。


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東国の武士団と深く結びつき、武家の棟梁の地位を決定づけた源氏三代ですが・・・

義家の没後は、内紛や不祥事によって朝廷や摂関家からの信頼を失ってしまいます。

一時、鎌倉を拠点に東国武士団と強力な軍事基盤を築いた六代目の義朝が信頼を回復させますが・・・

義朝は1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れて命を落とし、子の頼朝も伊豆に流されて河内源氏は再び滅亡に危機に。

そして、清盛一族(平家・伊勢平氏)の全盛の時代に。


亀谷館
(イメージ図)

義朝は、幼い頃に東国へ下向。

安房国の丸御厨に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたことから「上総御曹司」と呼ばれていました。

成人してからは相模国の沼浜亭(現在の逗子市)を拠点に活動。

のちに先祖ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷に拠点を移し、東国における武士団の組織化と自身の勢力基盤の拡大を図りました。

亀谷館跡には、壽福寺が建てられています。


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平治の乱後の河内源氏は、七代棟梁となるはずの頼朝伊豆国の流人となってしまいますが・・・

義朝が築いた東国武士団との強い絆は残されていました。

1180年(治承4年)、頼朝が源氏再興の挙兵をすると、かつて義朝に従っていた東国武士団が大挙して頼朝に味方。

先祖が残した鎌倉に入ります。

鎌倉を本拠地と定めた頼朝は、由比郷にあった鶴岡八幡宮(由比若宮)を鎌倉の中心地に遷座して街づくりの中心に据えました。

1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。

頼朝は父義朝の武力基盤を用いて河内源氏を武士の頂点に返り咲かせています。


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壽福寺

鶴岡八幡宮


歴史めぐり源頼朝


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2026年6月25日木曜日

仏を超えた織田信長~摠見寺に祀られた盆山~


盆山(イメージ図)


織田信長は、晩年に豪華絢爛な安土城を築き、郭内には摠見寺を建立します。

当時の摠見寺の本堂には、本尊の他、竹生島から勧請された弁財天なども安置されていたと伝えられています。

当時の本尊が何だったのかはわかりませんが・・・

信長が重視したのは本尊ではなく、自身を神格化するための御神体「盆山」(ぼんさん)。

本堂二階に置いて礼拝させていたのだとか。

摠見寺には信長が近江国甲賀郡長寿寺から移築させた三重塔が現在が残されていますが・・・

通常の寺院のように見上げるような目立つ場所ではなく、「盆山」が置かれた本堂より低い位置に建てられています。

このことから、信長は自身が「仏をも超えた存在」であることを誇示しようとしたのではないかという説があるようです。



摠見寺

安土城



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織田信長の竹生島参詣

竹生島の青葉の笛


本能寺の変


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2026年6月22日月曜日

鶴岡八幡宮の七夕祭は乞巧奠を基にした神事


イメージ図


鶴岡八幡宮の七夕祭は、中国の星祭り「乞巧奠」(きっこうでん)を基にしています。

7月7日の七夕祭神事では、京都の冷泉家に伝わる古典的な乞巧奠の飾りなどを参考にした優美なしつらえが再現されます。


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「乞巧奠」とは・・・

もともとは女性が針仕事の上達を願う祭。

「乞巧」には「機織りや裁縫が上達することを乞う(願う)」という意味があり、「奠」には「お供え物をして祀る」という意味があるのだとか。

日本の七夕は、「乞巧奠」と「お盆」の行事が習合したものといわれています。


イメージ図


中国の伝説では、織姫星と彦星が年に一度だけ逢える日ともされています。

機織りが上手だった織姫星は、牛追いの彦星と結婚して幸せな生活を送りますが、幸せ過ぎて織姫星は機織りをしなくなり、彦星は牛追いをしなくなってしまったため、天の川を隔てて引き離されてしまいます。

そして、年に一度だけ、七夕の日のみに会うことを許され、織姫と彦星を逢わせるため、たくさんのカササギが翼を連ねて橋を作ったのだとか。


鶴岡八幡宮の七夕まつり

鶴岡八幡宮


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鎌倉の夏祭り

夏だ!休みだ!鎌倉だ!



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西の祇園の花車、東は腰越の人形山車~鎌倉の祇園祭 小動神社天王祭~




小動神社天王祭で巡行・展示されるの腰越の人形山車は、神戸町、濱上町、土橋町、下町、中原町の5ヶ町の五基。

かつての天王祭は「西の祇園の花車、東は腰越の人形山車」といわれるほど壮麗な山車祭だったそうです。

「祇園の花車」とは・・・




京都の八坂神社の祭礼「祇園祭」で巡行する山車(山鉾)のこと。

「山鉾」を「花車」と呼ぶことはないそうですが、ここでの「花車」は造花や絢爛豪華な彫刻・幕などで美しく装飾された祭礼用の山車全般を指しているようです。

腰越の人形山車は祇園祭の山鉾に匹敵する壮麗で贅を尽くしたものでした。

高さも8メートルにおよぶもので、江ノ電の架線をはずし、江ノ電をストップさせて巡行していたそうです。

しかし、1962年(昭和37年)の火災で、下町を除く4基の山車が焼失。

その後、神戸町、土橋町、中原町が焼失を免れた部品を使用して再建されますが、小型化され、江ノ電が徐行する中を巡行・展示するという現代ならではの風情となっています。

それでも、腰越の山車は「廻り舞台」を特徴「湘南型山車」の元祖。

山車の舞台をぐるりと回転させて神輿に正対させ、お囃子を奏でて最大級の敬意と歓迎を表現する光景は特に盛り上がる場面。

山車の最上部には、町内ごとに異なる歴史上の英雄や神話の登場人物を象った精巧な人形が飾られます。

そして、昨年(2025年)は、濱上町の山車が63年振りに再建されて天王祭に加わり、五ヶ町すべての山車が揃い踏みを果たしています。



小動神社天王祭

小動神社


祇園祭

八坂神社


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小動神社天王祭は江の島天王祭と同時開催の行合祭!


江の島天王祭

江の島八坂神社


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2026年6月21日日曜日

鎌倉八坂大神の六角神輿~京都の八坂神社の六角神輿を手本に造られた!~




扇ガ谷の鎮守・八坂大神は相馬師常が創建した神社。

現在の祭神は素戔雄尊ですが、創建時の祭神は牛頭天王。

そのため八坂大神は相馬天王と呼ばれていました。

おそらく祭礼は「天王祭」と呼ばれていたのでしょう。


現在の例大祭は7月12日ですが、かつての祭礼は7月5日から7月12日まで執り行われ、神輿渡御も複数に分けて行われていたそうです。

八坂大神の神輿は・・・

中世の祭礼での神輿は鉄製で祭りのときには血をみないではすまない神輿だったそうですが、多くの怪我人を出した鉄神輿は封印され、新たに木製の神輿が造られたのだとか。

新調された神輿が京都の八坂神社の神輿を手本とした六角神輿

現在は担ぎ手不足なの理由から六角神輿の渡御は行われていませんが、六角神輿は神輿庫で大切に保管され、毎年7月上旬に開催される「扇ガ谷まつり」の際に拝観することができます。

2026年の「扇ガ谷まつり」は7月4日(土)。



八坂大神の六角神輿

八坂大神


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祇園祭

八坂神社の神輿

八坂神社


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2026年6月20日土曜日

鶴岡八幡宮の茅の輪くぐり~茅の輪守りと夏越の大祓~



6月30日は、夏越の大祓

全国の神社では、半年間の罪や穢れを祓い清めて無病息災を祈る神事が執り行われますが・・・

夏越の大祓の一環として行われるのが「茅の輪くぐり」。

鶴岡八幡宮では、舞殿前に茅の輪が設置され、神職の先導に従って「左回り→右回り→左回り」の順番で、八の字を描くように合計3回くぐってから神前にお参りします。

鶴岡八幡宮の夏越の大祓は、午前11時・午後1時・午後3時・午後5時の4回。


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茅の輪は、チガヤなどの草を束ねて作られた輪。

夏越の祓で設置されるものは、人がくぐれるほどの巨大なものですが、もとは身に着けることのできる小さな輪(茅の輪守り)でした。



「茅の輪守り」は、神話に登場する「蘇民将来」(そみんしょうらい)の伝説に由来するもので、夏越の大祓の時期に授与されるお守り。

牛頭天王(ごずてんのう=素戔嗚尊(すさのおのみこと))が旅の途中で宿を求めた際、裕福な「巨旦将来」(こたんしょうらい)は断りましたが、巨旦将来の兄で貧しかった「蘇民将来」(そみんしょうらい)」は手厚くもてなしました。

そのお礼として、「腰に茅の輪をつければ疫病から逃れられる」と教えられ、その一族だけが災難を免れたという伝説がもとになっています。



「蘇民将来子孫家門」(そみんしょうらいしそんけのもん)とは、厄除け・疫病退散の呪符の言葉。

「ここは疫病から守ると約束された『蘇民将来』の子孫の家です」という意味の護符を掲げることで、牛頭天王が「ここは約束された家だ」と認識して素通りしていくのだとか。



牛頭天王は、人に疫病をもたらす疫病神(行疫神)ですが・・・

同時に「恐ろしい神をしっかり祀って機嫌を直してもらえば、逆に疫病から守ってくれる」という強力な除疫の神として信仰されてきました。

京都の祇園祭は牛頭天王の強大な力で疫病を退散させるために始まった祭です。

そして、祇園祭で授与される「粽」は、茅の輪が形を変えたもの。


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鶴岡八幡宮で授与さえる除魔守も茅の輪をモチーフにした魔除け・厄除けのお守りです。



鶴岡八幡宮の大祓 夏越の祓


鶴岡八幡宮


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祇園祭



八坂神社


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2026年6月18日木曜日

八幡太郎義家氏神~鎌倉最古の甘縄神明神社と八幡神~


(イメージ図)

源氏が鎌倉の地を所領としたのは平安時代中期。

河内源氏の二代棟梁源頼義が相模守に任じられた際、平直方から鎌倉の邸宅や所領を譲り受けたことに始まります(1036年(長元9年)頃)。

同時に直方の娘を妻とした頼義は、甘縄神明神社に子宝に恵まれるよう祈願したのだと伝えられ、1039年(長暦3年)には嫡男となる義家を授かっています。



数えで7歳となった1045(寛徳2年)、義家は父の頼義に伴われて源氏の氏神として信仰されていた京都の石清水八幡宮で元服。

「八幡」の名を授かり、「八幡太郎義家」(はちまんたろうよしいえ)と名乗っています。



1063年(康平6年)、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建しますが、甘縄神明神社の社殿によると、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。

1081年(永保元年)には、義家が由比若宮の社殿を修復していますが、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。

本来、源氏の氏神は八幡神ですが、義家は甘縄神明神社も鎌倉における守護神(氏神)として信仰しました。



甘縄神明神社


石清水八幡宮

元八幡・由比若宮


鶴岡八幡宮


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