別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2026年6月22日月曜日

鶴岡八幡宮の七夕まつり~乞巧奠とは?~




鶴岡八幡宮の「七夕まつり」は、毎年7月1日〜7日。

日本の七夕の起源は中国の星祭り「乞巧奠」(きっこうでん)。

最終日の7月7日の七夕祭神事では、京都の冷泉家に伝わる古典的な乞巧奠の飾りなどを参考にした優美なしつらえが再現されます。


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「乞巧奠」とは・・・

もともとは女性が針仕事の上達を願う祭。

「乞巧」には「機織りや裁縫が上達することを乞う(願う)」という意味があり、「奠」には「お供え物をして祀る」という意味があるのだとか。

日本の七夕は、「乞巧奠」と「お盆」の行事が習合したものといわれています。

伝説では、織姫星と彦星が年に一度だけ会える日ともされています。

機織りが上手だった織姫星は、牛追いの彦星と結婚して幸せな生活を送りますが、幸せ過ぎて織姫星は機織りをしなくなり、彦星は牛追いをしなくなってしまったため、天の川を隔てて引き離されてしまいます。

そして、年に一度だけ、七夕の日に会うことを許されたのだといいます。



鶴岡八幡宮の七夕まつり

鶴岡八幡宮


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鎌倉の夏祭り

夏だ!休みだ!鎌倉だ!



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西の祇園の花車、東は腰越の人形山車~鎌倉の祇園祭 小動神社天王祭~




小動神社天王祭で巡行・展示されるの腰越の人形山車は、神戸町、濱上町、土橋町、下町、中原町の5ヶ町の五基。

かつての天王祭は「西の祇園の花車、東は腰越の人形山車」といわれるほど壮麗な山車祭だったそうです。

「祇園の花車」とは・・・




京都の八坂神社の祭礼「祇園祭」で巡行する山車(山鉾)のこと。

「山鉾」を「花車」と呼ぶことはないそうですが、ここでの「花車」は造花や絢爛豪華な彫刻・幕などで美しく装飾された祭礼用の山車全般を指しているようです。

腰越の人形山車は祇園祭の山鉾に匹敵する壮麗で贅を尽くしたものでした。

高さも8メートルにおよぶもので、江ノ電の架線をはずし、江ノ電をストップさせて巡行していたそうです。

しかし、1962年(昭和37年)の火災で、下町を除く4基の山車が焼失。

その後、神戸町、土橋町、中原町が焼失を免れた部品を使用して再建されますが、小型化され、江ノ電が徐行する中を巡行・展示するという現代ならではの風情となっています。

それでも、腰越の山車は「廻り舞台」を特徴「湘南型山車」の元祖。

山車の舞台をぐるりと回転させて神輿に正対させ、お囃子を奏でて最大級の敬意と歓迎を表現する光景は特に盛り上がる場面。

山車の最上部には、町内ごとに異なる歴史上の英雄や神話の登場人物を象った精巧な人形が飾られます。

そして、昨年(2025年)は、濱上町の山車が63年振りに再建されて天王祭に加わり、五ヶ町すべての山車が揃い踏みを果たしています。



小動神社天王祭

小動神社


祇園祭

八坂神社


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小動神社天王祭は江の島天王祭と同時開催の行合祭!


江の島天王祭

江の島八坂神社


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2026年6月21日日曜日

鎌倉八坂大神の六角神輿~京都の八坂神社の六角神輿を手本に造られた!~




扇ガ谷の鎮守・八坂大神は相馬師常が創建した神社。

現在の祭神は素戔雄尊ですが、創建時の祭神は牛頭天王。

そのため八坂大神は相馬天王と呼ばれていました。

おそらく祭礼は「天王祭」と呼ばれていたのでしょう。


現在の例大祭は7月12日ですが、かつての祭礼は7月5日から7月12日まで執り行われ、神輿渡御も複数に分けて行われていたそうです。

八坂大神の神輿は・・・

中世の祭礼での神輿は鉄製で祭りのときには血をみないではすまない神輿だったそうですが、多くの怪我人を出した鉄神輿は封印され、新たに木製の神輿が造られたのだとか。

新調された神輿が京都の八坂神社の神輿を手本とした六角神輿

現在は担ぎ手不足なの理由から六角神輿の渡御は行われていませんが、六角神輿は神輿庫で大切に保管され、毎年7月上旬に開催される「扇ガ谷まつり」の際に拝観することができます。

2026年の「扇ガ谷まつり」は7月4日(土)。



八坂大神の六角神輿

八坂大神


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祇園祭

八坂神社の神輿

八坂神社


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2026年6月20日土曜日

鶴岡八幡宮の茅の輪くぐり~茅の輪守りと夏越の大祓~



6月30日は、夏越の大祓

全国の神社では、半年間の罪や穢れを祓い清めて無病息災を祈る神事が執り行われますが・・・

夏越の大祓の一環として行われるのが「茅の輪くぐり」。

鶴岡八幡宮では、舞殿前に茅の輪が設置され、神職の先導に従って「左回り→右回り→左回り」の順番で、八の字を描くように合計3回くぐってから神前にお参りします。

鶴岡八幡宮の夏越の大祓は、午前11時・午後1時・午後3時・午後5時の4回。


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茅の輪は、チガヤなどの草を束ねて作られた輪。

夏越の祓で設置されるものは、人がくぐれるほどの巨大なものですが、もとは身に着けることのできる小さな輪(茅の輪守り)でした。



「茅の輪守り」は、神話に登場する「蘇民将来」(そみんしょうらい)の伝説に由来するもので、夏越の大祓の時期に授与されるお守り。

牛頭天王(ごずてんのう=素戔嗚尊(すさのおのみこと))が旅の途中で宿を求めた際、裕福な「巨旦将来」(こたんしょうらい)は断りましたが、巨旦将来の兄で貧しかった「蘇民将来」(そみんしょうらい)」は手厚くもてなしました。

そのお礼として、「腰に茅の輪をつければ疫病から逃れられる」と教えられ、その一族だけが災難を免れたという伝説がもとになっています。



「蘇民将来子孫家門」(そみんしょうらいしそんけのもん)とは、厄除け・疫病退散の呪符の言葉。

「ここは疫病から守ると約束された『蘇民将来』の子孫の家です」という意味の護符を掲げることで、牛頭天王が「ここは約束された家だ」と認識して素通りしていくのだとか。



牛頭天王は、人に疫病をもたらす疫病神(行疫神)ですが・・・

同時に「恐ろしい神をしっかり祀って機嫌を直してもらえば、逆に疫病から守ってくれる」という強力な除疫の神として信仰されてきました。

京都の祇園祭は牛頭天王の強大な力で疫病を退散させるために始まった祭です。

そして、祇園祭で授与される「粽」は、茅の輪が形を変えたもの。


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鶴岡八幡宮で授与さえる除魔守も茅の輪をモチーフにした魔除け・厄除けのお守りです。



鶴岡八幡宮の大祓 夏越の祓


鶴岡八幡宮


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祇園祭



八坂神社


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2026年6月18日木曜日

八幡太郎義家氏神~鎌倉最古の甘縄神明神社と八幡神~


(イメージ図)

源氏が鎌倉の地を所領としたのは平安時代中期。

河内源氏の二代棟梁源頼義が相模守に任じられた際、平直方から鎌倉の邸宅や所領を譲り受けたことに始まります(1036年(長元9年)頃)。

同時に直方の娘を妻とした頼義は、甘縄神明神社に子宝に恵まれるよう祈願したのだと伝えられ、1039年(長暦3年)には嫡男となる義家を授かっています。



数えで7歳となった1045(寛徳2年)、義家は父の頼義に伴われて源氏の氏神として信仰されていた京都の石清水八幡宮で元服。

「八幡」の名を授かり、「八幡太郎義家」(はちまんたろうよしいえ)と名乗っています。



1063年(康平6年)、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建しますが、甘縄神明神社の社殿によると、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。

1081年(永保元年)には、義家が由比若宮の社殿を修復していますが、同年、甘縄神明神社の社殿修復も行っています。

本来、源氏の氏神は八幡神ですが、義家は甘縄神明神社も鎌倉における守護神(氏神)として信仰しました。



甘縄神明神社


石清水八幡宮

元八幡・由比若宮


鶴岡八幡宮


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2026年6月17日水曜日

源頼義の由比若宮~平氏の鎌倉から源氏の鎌倉~


(イメージ図)

由比若宮は、鶴岡八幡宮の元宮。

1063年(康平6年)に河内源氏二代棟梁の源頼義が氏神である京都の石清水八幡宮を勧請して創建した神社と伝えられています。

河内源氏は河内国石川郡壺井(現在の大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とした清和源氏の一流。

何故、河内源氏の頼義が鎌倉に石清水八幡宮の分霊を迎えたのか?

それには、平安時代に鎌倉を所領としていた武者たちの歴史が関係しています。


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平安時代中期の鎌倉は、桓武平氏が治める地でした。

京都で藤原道長や頼通に仕えていた平直方は、鎌倉に所領を与えられ、大蔵の地に屋敷を構えて関東の本拠地としました。

同時期、甘縄には平良文を祖とする鎌倉氏が屋敷を構えていました。

平直方は、摂関家に仕える「在京軍事貴族」。

鎌倉氏は、在庁官人(在地豪族)。

両者は異なる拠点や役割を持って多層的に鎌倉を支配していたようです。


その平安時代中期の1028年(長元元年)に起こったのが、房総平氏の祖平忠常の反乱(平忠常の乱)。

朝廷から追討使として派遣されたのは平直方でした。

直方は鎌倉を拠点にして鎮圧しようとしますが苦戦。

戦闘が長期化し、房総地方は荒廃を極めてしまいます。

1030年(長元3年)、朝廷は直方を更迭し、河内源氏の棟梁源頼信を後任に抜擢。

翌年、頼信が現地に赴くと、忠常は戦わずして降伏。

東国の大武士団を屈服させたことで、頼信の武名は東国や朝廷に一躍轟き渡ることになります。

一方、直方は武人としての名誉を失い、関東における平氏の勢力は失墜。

河内源氏が東国武士団を従え、勢力を拡大することとなりますが・・・

直方は、源氏の台頭を認め、頼信の一族に臣従する道を選択。

頼信の嫡男源頼義に自分の娘を嫁がせ、東国の拠点としていた鎌倉の大蔵邸や所領を頼義に譲り渡しました。

これにより、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となります。


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1051年〜1062年にかけて、陸奥国で発生した大規模な戦乱(前九年の役)では、頼義は鎮守府将軍として赴任しますが・・・

鎌倉をはじめとする東国武士団を動員・招集して前線へ送り込んでいます。

前九年の役の平定後、頼義はその勝利に感謝するため、鎌倉に源氏の氏神である石清水八幡宮を鎌倉に勧請(神の分霊を迎えること)したのだと伝えられています。

1081年(永保元年)には頼義の子義家が社殿を修復しています。





元八幡・由比若宮



石清水八幡宮

鶴岡八幡宮


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2026年6月16日火曜日

山ノ内八雲神社例大祭2026~鎌倉の祇園祭・天王祭~




山ノ内八雲神社は京都の祇園社(八坂神社)を勧請して創建された社。

江戸時代までは牛頭天王を祀る天王社でした。

そのため例大祭は天王祭とも呼ばれます。


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最終日の神幸祭(神輿渡御)は、山崎八雲神社(北野神社)の神輿と合流する行合祭。

山ノ内八雲神社と山崎八雲神社(北野神社)の現在の祭神は、スサノオノミコト。

スサノオと言えば八岐大蛇(やまたのおろち)退治の伝説。

姉・天照大神(あまてらすおおみかみ)の高天原(たかまがはら)で乱行を働いたスサノオは出雲に追放されます。

そこで出会ったのが老夫婦とその娘・稲田姫命(クシナダヒメ)。

老夫婦から、娘がヤマタノオロチに食われてしまうこと聞いたスサノオは、娘を嫁にもらう約束でヤマタノオロチを退治したのだといいます。

その際、スサノオが詠んだのが「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」。

これが日本最初の和歌だと言われています。

八雲神社という社名は、この歌に因むもので、山ノ内と山崎の行合祭は、「スサオノとクシナダのめぐり逢い」の伝説を今に伝えている祭事です。


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7月12日(日)
宮出し
9:30~


7月15日(水)
中日神事
19:30~(御仮屋)


7月18日(土)
宵宮まつり
15:00~20:00(円覚寺駐車場)
宵宮神事
17:30~(御仮屋)
神輿渡御
17:50~

※宵宮まつりのの大抽選会終了後、打ち上げ花火が計画されています(20:00頃)。


7月19日(日)
神輿渡御
10:00御仮屋出発
子供神輿
11:00
建長寺~八雲神社
出会いの儀神事
天王屋敷で14:20頃から
宮入り
15:30

※神輿渡御を先導するのは令和の洪鐘祭で復活した面掛行列。



八雲神社例大祭 北鎌倉の天王祭

山ノ内八雲神社


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鎌倉祇園大町まつり

八雲神社例大祭 極楽寺

江の島天王祭

小動神社天王祭


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