別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2025年8月20日水曜日

運慶 祈りの空間~南都焼討からの復興 東大寺・興福寺と運慶~




1180年(治承4年)12月28日、南都(奈良の都)は平重衡に火を放たれ、東大寺興福寺が焼き尽くされました(南都焼討)。

東大寺の復興は後白河法皇の支援の下で俊乗坊重源が奔走し、興福寺の復興は九条兼実の異母弟・信円が中心となって進められました。

そして、失われた仏像の復興事業で活躍したのが慶派の仏師。

慶派は、康慶からはじまる奈良仏師の傍流ですが、東大寺・興福寺の復興事業で造仏界の中心に躍り出ます。

康慶は、1178年(治承2年)に後白河法皇の蓮華王院(三十三間堂)の五重塔の造仏を任され、僧綱位の法眼を得た仏師。

僧綱位とは、仏師が与えられた位階で、下から法橋・法眼・法印。

当時、奈良仏師で僧綱位を得ていたのは康慶だけだったのだといいます。

康慶の子が南都の復興事業の中で仏像界に新風を吹き込んだ運慶


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興福寺は藤原氏の氏寺。

南円堂の本尊・不空羂索観音菩像は藤原氏の守護本尊として信仰されました。

南都焼討後の復興造仏を任されたのが運慶の父康慶。

1189年(文治5年)、康慶は一門を率いて不空羂索観音菩薩像・法相六祖坐像・四天王立像を造立しています。



東大寺大仏殿

東大寺の復興は、まず大仏の鋳造から始められ、1185年(元暦2年)に大仏の開眼供養が行われました。

その後、大仏殿の再建が始まり、1195年(建久6年)に落慶。

翌1196年(建久7年)には、康慶をはじめとする慶派一門による二菩薩像と四天王像が造立されています。

これらの仏像の造立を支援したのが源頼朝でした。

運慶は虚空蔵菩薩と増長天の大仏師を務め、その功績により法眼の地位を得ています。

残念ながら、慶派一門による二菩薩と四天王は、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火で失われてしまいました。



東大寺の金剛力士像

東大寺南大門の金剛力士像は、1203年(建仁3年)に運慶が一門を率いて造立した東大寺再興の象徴。

運慶は金剛力士像の造立の功績により、僧綱位の最高位である法印となっています。




興福寺北円堂は、興福寺の開基藤原不比等の一周忌に創建されました。

南都焼討後の復興造仏を任されたのが運慶

本尊の弥勒如来坐像、肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作といわれる無著・世親菩薩立像は、1212年(建暦2年)に運慶が一門を率いて造立したもの。

もとは北円堂に安置されていたという中金堂の四天王立像も運慶作ではないかと考えられています。


9月9日(火)から東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」が開催され、鎌倉復興期の北円堂が再現されます。


【会期】
2025年9月9日~11月30日。

【開館時間】
9時30分~17時00分


【観覧料】
一般 1,700円(前売 1,500円)
大学生 900円(前売 700円)
高校生 600円(前売 400円)

前売りチケットの販売は9月8日まで。


チケット



【休館日】
9月29日(月)、10月6日(月)、14日(火)、20日(月)、27日(月)、 11月4日(火)、10日(月)、17日(月)、25日(火)



運慶


運慶願経


興福寺北円堂

興福寺中金堂

興福寺南円堂


興福寺


南都焼討








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南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~


東大寺大仏殿落慶供養


東大寺


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2025年8月19日火曜日

南都を焼き討ちした平重衡~鎌倉で源頼朝に厚遇されたが・・・~


南都焼討は、1180年(治承4年)12月28日、平清盛の五男・平重衡が東大寺興福寺を焼き尽くした事件。



南都焼討の前年、重衡の父平清盛は、後白河法皇を幽閉し、娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させ、平家による独裁政治を始めます。

清盛の行動は、貴族・寺社・武士からの反発を受け、全国的な反平家勢力の蜂起へとつながっていきました。

1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子・以仁王が諸国の源氏に平家打倒の令旨を発します。

以仁王は討たれてしまいますが、8月17日には伊豆の源頼朝が挙兵し、10月20日には富士川の戦いで平家軍を敗走させています。

以仁王の挙兵に味方した園城寺が頼朝にも味方するのではないと案じた清盛は、12月11日、五男の重衡に園城寺を攻めさせました。

園城寺は焼かれ、金堂以下の堂塔は、ほとんど灰となってしまったのだといいます(※被害の程度は資料によって異なります。)。

南都の東大寺興福寺に対しては、なるべく和平的に解決しようとしていたようですが・・・

南都の大衆は、清盛が派遣した妹尾兼康の兵60余人の首を猿沢池に並べたのだとか。

『平家物語』は、これが南都攻撃につながったと伝えています。


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東大寺興福寺を焼き尽くした平重衡は、1183年(寿永2年)2月7日、一ノ谷の戦いで捕えられ、鎌倉へ送られてきます。

重衡の態度に感心した源頼朝は、工藤祐経に接待を命じ、侍女の千手前を仕えさせて重衡を客として厚遇したそうです。

しかし、1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦で平家が滅亡すると、鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、6月23日、木津川で斬首されました。


(鎌倉)

鎌倉の教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、頼朝が一族の冥福を祈るようにと重衡に与えたものと伝えられています。


(木津川)

木津川の安福寺の本尊・阿弥陀如来像は、重衡が最後に拝んだ引導仏と伝えられています。



(京都)

木津川で斬首された重衡の首は奈良の般若寺に晒されましたが、妻の藤原輔子は東大寺再興の大勧進だった重源に請うて首をもらい受け、捨てられていた胴体とともに日野の法界寺で荼毘に付し、灰塚(平重衡の墓)を築いて、骨は高野山に納めたのだと伝えられています。


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北円堂の諸仏は運慶が造立した南都焼討後の復興仏。

9月9日(火)から東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」が開催されます。



南円堂の諸仏は運慶の父康慶が造立した南都焼討後の復興仏。



運慶


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間








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東大寺


興福寺


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2025年8月18日月曜日

運慶と北条時政の願成就院と和田義盛の浄楽寺


(伊豆の国市)

願成就院は、『吾妻鏡』の記載によると、1189年(文治5年)に北条時政源頼朝奥州討伐の戦勝を祈願して建立したという寺院。


(横須賀市)

浄楽寺の創建時期等は不明ですが、願成就院と同じく、1189年(文治5年)に和田義盛が奥州征伐の戦勝を祈願して建立したと考えられています。


この2つの寺院には、運慶の真作が置かれています。

願成就院の運慶仏は、胎内銘札から1186年(文治2年)に北条時政の発願によって造立されたことが確認されています。

浄楽寺の運慶仏は、1189年(文治5年)に和田義盛の発願によって造立されたものであることが確認されています。


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近年、願成就院は、運慶の造仏が1186年(文治2年)であることから、それ以前に建立された考えられています。

1186年(文治2年)は平家が壇ノ浦で滅亡した翌年。

まだ奥州討伐が計画されていない時代。

とすると、奥州征伐の祈願寺として創建されたのではないようです。

時政は一族の繁栄と源平の争いにより疲弊していた民衆のために、運慶に造仏を依頼したのではないでしょうか。

浄楽寺の運慶仏は、奥州征伐が行われた年に造仏されていますが、頼朝が奥州征伐を決定したのは源義経が奥州で自刃した閏4月30日以降。

運慶仏はその前の3月20日造立。

やはり、奥州征伐の戦勝祈願のため​ではなさそうです。



運慶願経

運慶は1180年(治承4年)の南都焼討で、東大寺興福寺が焼け落ちるのを目の当たりにした仏師。

平和と南都復興を願っていました。



9月9日(火)から東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」が開催されます。

北円堂の諸仏は運慶が造立した南都焼討後の復興仏。



運慶








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東大寺


興福寺


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2025年8月17日日曜日

運慶願経~運慶の南都復興への思い~


「運慶願経」は、運慶の発願により書写された法華経八巻。

巻一は失われてしまいましたが、巻二から七は真正極楽寺に伝えられ、巻八は個人蔵として伝えられています。

いずれも国宝。




1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討から3年後の1183年(寿永2年)に完成させたもので、運慶の南都復興への思いが込められているもの。

奥書には、快慶をはじめとする慶派仏師の名も連ねられ、経を巻く軸木は南都焼討で焼失した東大寺の残木を使用し、墨を磨る水は比叡山横川園城寺清水寺の霊水を使用したことが記されています。



運慶願経


運慶


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間








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東大寺

興福寺


南都焼討

南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~


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2025年8月16日土曜日

流鏑馬の射手・諸役定めの儀~鶴岡八幡宮例大祭~


『吾妻鏡』によると・・・

1187年(文治3年)8月4日、源頼朝は15日の鶴岡八幡宮の放生会で奉納する流鏑馬の「射手・諸役定めの儀」を執り行いました。

的立て役となった熊谷直実が役を拒んで領地を没収されたというような事件もあったようです。


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鶴岡八幡宮例大祭は、9月14日から16日。

1187年(文治3年)に行われた放生会を起源としています。

最終日の16日には流鏑馬が奉納されますが、今でも故実に基づいて「射手・諸役定めの儀」が行われています。

2025年は9月7日(日)。

13:00から舞殿で行われる予定です。




流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭








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浜降式:鶴岡八幡宮例大祭

神幸祭:鶴岡八幡宮例大祭


鶴岡八幡宮



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