別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2026年6月30日火曜日

源頼朝が本拠地とした鎌倉は「天下を収めるのに適した地」




源頼朝は、河内源氏六代棟梁の源義朝の嫡男。

1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れ、父義朝は尾張国で命を落とし、頼朝は伊豆国に流されました。

それから約20年を伊豆国で流人生活を送っていましたが、1180年(治承4年)8月に源氏再興の挙兵を果たします。

相模国へ進軍後、石橋山の戦いに大敗してしまいますが、安房国に渡って再挙。

下総国・上総国・武蔵国の武士団を率いて10月7日に鎌倉に入ります。



『吾妻鏡』によると、当時の鎌倉は辺鄙な所で、漁師と百姓以外住んでる人が少なかったようですが・・・

それでも「天下を収めるのに適した地だった」ようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


頼朝に鎌倉を本拠とするよう進言したのは千葉常胤だったといわれています。

常胤は、

「先祖が残した遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適し、陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利であり、兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのまま」

と進言した上で・・・

「鎌倉」を以下のように説明したようです。


☆「鎌倉」という地名は、大織冠藤原鎌足の伝説に由来している。


伝説によると、飛鳥時代の貴族・中臣鎌足は、鹿島神宮を詣でる途中の由比の里(現鎌倉)で、鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まるという夢告を受けたのだとか。

この鎌足の鎌槍伝説は、鎌足がが中大兄皇子(のちの天智天皇)らとともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、大化の改新を断行した直後の646年のもの。

鎌足は669年に亡くなりますが、亡くなる前日に大織冠を授けられ藤原姓を賜ったのだといわれています。


☆鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていた。


鎌足の玄孫といわれる染屋時忠は、飛鳥時代から奈良時代にかけて鎌倉に住んで、関東諸国の総司令官として東国8ヶ国を治め、「由比の長者」と呼ばれていたそうです。

鎌倉最古といわれる甘縄神明神社は時忠の創建と伝えられています。


☆平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となった。


京都で藤原道長や頼通に仕えていた平直方は、鎌倉に所領を与えられ、大蔵の地に屋敷を構えて関東の本拠地としていました。

平直方は、平将門の乱を鎮圧した平貞盛の孫。

直方から鎌倉の地を譲り受けた源頼義は、由比郷に石清水八幡宮の分霊を迎えて由比若宮を創建しています。


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染屋時忠邸跡

元八幡・由比若宮


歴史めぐり源頼朝


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梶の葉の和歌~天の川の織姫と彦星に願いを届ける!



平安時代の宮中では、「梶(かじ)の葉」に和歌を書いて願い事をする風習がありました。

里芋の葉に溜まった夜露を集めて墨を摺り、梶の葉に和歌を詠んで織姫や彦星に手向けていました。

里芋の葉に作られるきれいで大きな露の玉は、「天の川の雫(しずく)」と考えられていたようです。

和歌が詠まれた梶の葉は、川に流されていましたが・・・

梶の葉が「天の川を渡る舟の舵(かじ)となって、織姫と彦星のもとへ願いを運んでくれる」というロマンチックな信仰から生まれたのだとか。



梶の葉に和歌を詠んで・・・

源実朝の七夕歌


鶴岡八幡宮の七夕まつり

鶴岡八幡宮


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鎌倉の夏祭り

夏だ!休みだ!鎌倉だ!



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2026年6月29日月曜日

小動神社天王祭2026~神幸祭は7月12日 鎌倉の夏祭り~


小動神社天王祭


小動神社天王祭は、7月第1日曜日から第2日曜日にかけて行われる小動神社の祭礼。

江の島八坂神社の祭礼(江の島天王祭)と同時開催される行合祭です。

伝説や歴史上の人物をモチーフにした人形を乗せた山車も見どころ。


出御祭
7月5日 16:30~

宵宮祭
7月11日 18:00~

神幸祭
7月12日 9:30~

行合祭は午後。

八坂神社の神輿が海上渡御を行った後、海を渡って14:00頃に龍口寺前で合流します。

小動神社の神輿も海上渡御を行っていましたが、ここ数年行われていません。



小動神社天王祭

小動神社


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江の島天王祭

江の島八坂神社


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2026年6月27日土曜日

河内源氏~源氏三代(頼信・頼義・義家)と義朝・頼朝と鎌倉




河内源氏の基盤を築いた頼信・頼義・義家は「源氏三代」と称されます。

頼信は藤原道長四天王の一人に数えられ、房総半島で起こった平忠常の乱を鎮めて源氏の武名を天下に轟かせました。

二代頼義は平直方から鎌倉の地を譲り受け、鎌倉を東国支配の拠点としました。

前九年の役後には鎌倉に京都の石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建。

三代義家は後三年の役を平定。

朝廷からは私闘と判断されて恩賞が与えられませんでしたが、義家は自らの私財をはたいて家来へ恩賞を与えて「武神」と崇められました。


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東国の武士団と深く結びつき、武家の棟梁の地位を決定づけた源氏三代ですが・・・

義家の没後は、内紛や不祥事によって朝廷や摂関家からの信頼を失ってしまいます。

一時、鎌倉を拠点に東国武士団と強力な軍事基盤を築いた六代目の義朝が信頼を回復させますが・・・

義朝は1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れて命を落とし、子の頼朝も伊豆に流されて河内源氏は再び滅亡に危機に。

そして、清盛一族(平家・伊勢平氏)の全盛の時代に。


亀谷館
(イメージ図)

義朝は、幼い頃に東国へ下向。

安房国の丸御厨に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたことから「上総御曹司」と呼ばれていました。

成人してからは相模国の沼浜亭(現在の逗子市)を拠点に活動。

のちに先祖ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷に拠点を移し、東国における武士団の組織化と自身の勢力基盤の拡大を図りました。

亀谷館跡には、壽福寺が建てられています。


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平治の乱後の河内源氏は、七代棟梁となるはずの頼朝伊豆国の流人となってしまいますが・・・

義朝が築いた東国武士団との強い絆は残されていました。

1180年(治承4年)、頼朝が源氏再興の挙兵をすると、かつて義朝に従っていた東国武士団が大挙して頼朝に味方。

先祖が残した鎌倉に入ります。

鎌倉を本拠地と定めた頼朝は、由比郷にあった鶴岡八幡宮(由比若宮)を鎌倉の中心地に遷座して街づくりの中心に据えました。

1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。

頼朝は父義朝の武力基盤を用いて河内源氏を武士の頂点に返り咲かせています。


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壽福寺

鶴岡八幡宮


歴史めぐり源頼朝


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2026年6月25日木曜日

仏を超えた織田信長~摠見寺に祀られた盆山~


盆山(イメージ図)


織田信長は、晩年に豪華絢爛な安土城を築き、郭内には摠見寺を建立します。

当時の摠見寺の本堂には、本尊の他、竹生島から勧請された弁財天なども安置されていたと伝えられています。

当時の本尊が何だったのかはわかりませんが・・・

信長が重視したのは本尊ではなく、自身を神格化するための御神体「盆山」(ぼんさん)。

本堂二階に置いて礼拝させていたのだとか。

摠見寺には信長が近江国甲賀郡長寿寺から移築させた三重塔が現在が残されていますが・・・

通常の寺院のように見上げるような目立つ場所ではなく、「盆山」が置かれた本堂より低い位置に建てられています。

このことから、信長は自身が「仏をも超えた存在」であることを誇示しようとしたのではないかという説があるようです。



摠見寺

安土城



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織田信長の竹生島参詣

竹生島の青葉の笛


本能寺の変


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2026年6月22日月曜日

鶴岡八幡宮の七夕祭は乞巧奠を基にした神事


イメージ図


鶴岡八幡宮の七夕祭は、中国の星祭り「乞巧奠」(きっこうでん)を基にしています。

7月7日の七夕祭神事では、京都の冷泉家に伝わる古典的な乞巧奠の飾りなどを参考にした優美なしつらえが再現されます。


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「乞巧奠」とは・・・

もともとは女性が針仕事の上達を願う祭。

「乞巧」には「機織りや裁縫が上達することを乞う(願う)」という意味があり、「奠」には「お供え物をして祀る」という意味があるのだとか。

日本の七夕は、「乞巧奠」と「お盆」の行事が習合したものといわれています。


イメージ図


中国の伝説では、織姫星と彦星が年に一度だけ逢える日ともされています。

機織りが上手だった織姫星は、牛追いの彦星と結婚して幸せな生活を送りますが、幸せ過ぎて織姫星は機織りをしなくなり、彦星は牛追いをしなくなってしまったため、天の川を隔てて引き離されてしまいます。

そして、年に一度だけ、七夕の日のみに会うことを許され、織姫と彦星を逢わせるため、たくさんのカササギが翼を連ねて橋を作ったのだとか。


鶴岡八幡宮の七夕まつり

鶴岡八幡宮


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鎌倉の夏祭り

夏だ!休みだ!鎌倉だ!



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西の祇園の花車、東は腰越の人形山車~鎌倉の祇園祭 小動神社天王祭~




小動神社天王祭で巡行・展示されるの腰越の人形山車は、神戸町、濱上町、土橋町、下町、中原町の5ヶ町の五基。

かつての天王祭は「西の祇園の花車、東は腰越の人形山車」といわれるほど壮麗な山車祭だったそうです。

「祇園の花車」とは・・・




京都の八坂神社の祭礼「祇園祭」で巡行する山車(山鉾)のこと。

「山鉾」を「花車」と呼ぶことはないそうですが、ここでの「花車」は造花や絢爛豪華な彫刻・幕などで美しく装飾された祭礼用の山車全般を指しているようです。

腰越の人形山車は祇園祭の山鉾に匹敵する壮麗で贅を尽くしたものでした。

高さも8メートルにおよぶもので、江ノ電の架線をはずし、江ノ電をストップさせて巡行していたそうです。

しかし、1962年(昭和37年)の火災で、下町を除く4基の山車が焼失。

その後、神戸町、土橋町、中原町が焼失を免れた部品を使用して再建されますが、小型化され、江ノ電が徐行する中を巡行・展示するという現代ならではの風情となっています。

それでも、腰越の山車は「廻り舞台」を特徴「湘南型山車」の元祖。

山車の舞台をぐるりと回転させて神輿に正対させ、お囃子を奏でて最大級の敬意と歓迎を表現する光景は特に盛り上がる場面。

山車の最上部には、町内ごとに異なる歴史上の英雄や神話の登場人物を象った精巧な人形が飾られます。

そして、昨年(2025年)は、濱上町の山車が63年振りに再建されて天王祭に加わり、五ヶ町すべての山車が揃い踏みを果たしています。



小動神社天王祭

小動神社


祇園祭

八坂神社


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小動神社天王祭は江の島天王祭と同時開催の行合祭!


江の島天王祭

江の島八坂神社


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