【問】
壽福寺の墓地にある五輪塔は,源実朝とだれの墓と伝えられているか。
(第19回3級)
壽福寺には、
北条政子と
源実朝の墓と伝えられている五輪塔があります。
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北条政子は、1225年(嘉禄元年)7月11日に逝去。
勝長寿院で荼毘に付されたのだと伝えられています。
源実朝は、1219年(建保7年)1月27日、
鶴岡八幡宮で甥の
公暁に暗殺されました。
遺体は
勝長寿院に葬られましたが、首は波多野の地に葬られたのだと伝えられています。
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『吾妻鏡』の記録からすると、
北条政子も
源実朝も
勝長寿院に葬られたようですので、壽福寺の五輪塔は、供養塔として建てられたものと考えられます。
ただ、政子と実朝のものと断定されているわけではありません。
壽福寺は政子が創建したと伝えられる寺。
実朝は開山の
栄西に帰依し、
壽福寺の実朝の位牌には「当寺大檀那」と記されているようです。
そのため、二つの五輪塔が政子と実朝のものと伝承されてきたのかもしれません。
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一般的に、
壽福寺は
北条政子が
源頼朝の菩提を弔うために創建した寺院とされていますが、嫡男の
源頼家が創建したという説も有力です。
『吾妻鏡』によると
壽福寺が建てられたのは1200年(正治2年)。
前年に頼朝が亡くなり、家督を相続していたのは
頼家。
「壽福寺由緒書」には、「開基は頼朝公草創の本願にて頼家公創建」と記されているようです。
ただ、『吾妻鏡』には、政子が
源義朝(頼朝の父)の遺跡に壽福寺を建立しようとして、二階堂行光と
三善康信(善信)に亀ヶ谷の地を巡検させ、逗子の
沼浜亭(義朝の館)を壽福寺に移して与えたことなどが記されていることから、建立を主導したのは政子であることは間違いないようです。
当時の慣習として、頼朝の菩提を弔うためのような公的な寺院の建立には、家督を継いだ
頼家の承認が必要だったと思われます。
また、経済的援助も必要だったでしょうから、開基の名義も
頼家になったのかもしれません。
頼家は、1203年(建仁3年)に
比企能員の変で伊豆の
修禅寺に幽閉されて、翌年暗殺されています。
歴史に「もしもはない」と言われますが、もしも頼家が何事のなく将軍を務めていたとしたならば、壽福寺の大旦那は実朝ではなく頼家だったのでしょう。
実朝のものと伝えられる五輪塔も「源頼家の五輪塔」になっていたのかも・・・
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1202年(建仁2年)創建という京都の
建仁寺の開基も
源頼家のようですが、実質的な創建者は開山の
栄西だったようです。
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他にもある北条政子と源実朝の墓
(安養院)
安養院は、
北条政子が
源頼朝の菩提を弔うために建てたという笹目
長楽寺をその前身としているといいます。
安養院本堂の裏には、
北条政子のものと伝わる
宝篋印塔が建てられています。
(秦野市 金剛寺)
暗殺された
源実朝の首を葬ったことがそのはじまりとされる秦野市の
金剛寺の近くには、
源実朝公御首塚があります。
もとは
「木造の五輪塔」が建てられていましたが、その五輪塔は
鎌倉国宝館に寄託されています。
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