別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2025年10月12日日曜日

瀬戸神社の舞楽面~抜頭面は運慶が彫った?~


横浜市金沢区の瀬戸神社には、源実朝が愛用したというふたつの舞楽面が所蔵されています。


抜頭

抜頭(ばとう)面の裏には運慶が彫刻したという銘が残されています。

これは、のちに追記されたものともいわれ、運慶作と断定されてはいませんが、慶派の仏師によるものであることは間違いないようです。


陵王

もう一つは、陵王(りゅうおう)面。

鶴岡八幡宮陵王面とほぼ同じ形式のもの。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



瀬戸神社は、1180年(治承4年)に源頼朝が崇敬していた伊豆の三嶋大社を勧請して創建した社。



瀬戸神社の社頭の琵琶島弁財天は、北条政子が琵琶湖の竹生島の弁財天を勧請したのだと伝えられています。



運慶


三嶋大社

竹生島









☆ ☆ ☆ ☆ ☆



運慶 祈りの空間

宝物風入


鎌倉の紅葉

北鎌倉の紅葉


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2025年10月5日日曜日

2025伊豆山神社の新嘗祭~熱海に赤城の大蛇もやってくる特別な秋祭り!11月23日~


11月23日に行われる「新嘗祭」は、その年の五穀豊穣を感謝する祭。

ただ、伊豆山神社の新嘗祭は、様々なイベントで賑わう特別な秋祭り。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


大蛇神輿の渡御




老神温泉の「大蛇まつり」は、赤城山の守り神「蛇」に感謝を捧げる祭。

巳年の今年は、12年に一度の全長108.22mの大蛇神輿の特別渡御がありました。



熱海の街を渡御するのは30メートルの白蛇の大蛇神輿のようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


グルメ


伊豆山神社境内にはフリーマーケットやキッチンカーが並びます。

アジフライやクレープ、焼きそば、群馬名物の焼きまんじゅうも。




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ステージイベント





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伊豆山神社

伊豆山神社は、源頼朝が源氏再興を祈願した社。

境内の腰掛石は、頼朝と北条政子が愛を語らったという石。

政子は御神木「梛の木」の葉を鏡の下に敷き、頼朝との愛を祈ったのだとか・・・

「北条政子の頭髪梵字曼荼羅」は、政子が自らの髪の毛を刺繍したものといわれています。

二人の次男源実朝は・・・

ちはやぶる
伊豆のお山の
玉椿
八百万代も
色はかはらし


箱根路を
わが越えくれば
伊豆の海や
沖の小島に
波のよるみゆ


伊豆の国や
山の南に
出づる湯の
速きは神の
験なりけり


と詠んでいます。




伊豆山神社


熱海と源頼朝の伝説

伊豆・箱根の二所詣








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


箱根神社

三嶋大社


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2025年9月28日日曜日

三嶋大社の金木犀 2025 ~源頼朝も甘い香りを鑑賞したかも。~


三嶋大社の情報によると、天然記念物の金木犀が1回目の開花中。




三嶋大社の金木犀は樹齢1200年という古木。

時には、その甘い香りが二里先まで届いたのだとか。

源頼朝が流されていたという蛭ヶ小島まで届いていたかも。

※金木犀は二回開花します。



三嶋大社の金木犀


三嶋大社








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源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~


伊豆・箱根の二所詣


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2025年9月14日日曜日

源頼朝の三回忌に造立された運慶仏~岡崎市 瀧山寺~




瀧山寺は、源頼朝の従兄弟・寛伝が住持した寺。

寛伝の父は、頼朝の母・由良御前の兄で熱田神宮大宮司・藤原範忠。

少年期に滝山寺に入った寛伝は、由良御前の弟・長暹のもとで天台僧として修行し、後に真言宗の仁和寺で修行を積んだのだといいます。

日光山満願寺(輪王寺)の座主も勤めました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



瀧山寺の縁起によると・・・

聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)の源頼朝の三回忌に運慶とその子湛慶が造立したと伝えらえている。




瀧山寺



運慶


運慶 祈りの空間


運慶願経








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


東大寺大仏殿にも運慶仏があった!
東大寺大仏殿

東大寺南大門の金剛力士像は
運慶作!
東大寺南大門

興福寺北円堂の
南都焼討後の復興仏は運慶作!
興福寺北円堂


東大寺

興福寺


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2025年9月13日土曜日

運慶と鎌倉


(六波羅蜜寺)


運慶は奈良仏師の傍流で、父の康慶から始まる一派は「慶派」と呼ばれました。

慶派の仏師は、1180年(治承4年)の南都焼討で灰燼に帰した東大寺興福寺の仏像の復興事業で活躍。

運慶は・・・

1203年(建仁3年)に東大寺南大門の金剛力士像を造立し、その功績からの僧綱位の極位である法印となります。

僧綱位は、仏師としての地位で下から法橋・法眼・法印。

1212年(建暦2年)には興福寺北円堂の諸仏を造立し、武家の都「鎌倉」にも大きな影響を与えました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・

1216年(建保4年)、源実朝の持仏堂の本尊・釈迦如来

1218年(建保6年)、北条義時大倉薬師堂の薬師如来

1219年(承久元年)、北条政子の依頼による勝長寿院の五大尊像

を造立していますが、残念ながら、これらの仏像は現存していません。

現存しているものとしては、金沢の称名寺大威徳明王

像内文書から1216年(建保4年)に、実朝の養育係だった大弐局の発願で造立されたことが判明しています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


それ以前にも、運慶は鎌倉武士と関係がありました。

北条時政が伊豆に建てた願成就院には、1186年(文治2年)に時政の発願によって造立された諸仏が現存、

和田義盛が横須賀に建てた浄楽寺には、1189年(文治5年)に義盛の発願によって造立された諸仏が現存しています。



願成就院の運慶仏

浄楽寺の運慶仏


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源頼朝はどうだったのか?

1185年(元暦2年)、勝長寿院を建立しますが、鎌倉に呼ばれたのは奈良仏師の正系・成朝でした。

何故、康慶や運慶ではなく成朝に依頼したのか?

それは、頼朝が系統や血筋を重視するタイプだったからと考えられています。

奈良仏師は平等院の阿弥陀如来像を造立した定朝の流れをくむ仏師集団。

成朝は定朝の嫡流でした。

当時、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは運慶の父康慶のみでしたが、それでも頼朝は無位の成朝を選んでいます。


それでは、頼朝は運慶に造仏依頼をしなかったのでしょうか?

1192年(建久3年)、頼朝は永福寺を建立しています。

近年では永福寺の造仏は運慶が担当したのではないかとする説があるようです。

永福寺が建立された年、のちに三代将軍となる実朝が誕生していますが、誕生時の祈願所となった横須賀の曹源寺の十二神将像は運慶周辺の仏師によるものと考えられ、永福寺の薬師堂にあった十二神将像の模刻ともいわれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


日本の各地に運慶作とされる仏像は数多く存在しますが、運慶の真作とされているものは僅か。

鎌倉では・・・

光触寺阿弥陀如来像(頬焼阿弥陀の伝説)

杉本寺十一面観音像 (頼朝寄進の御前立)・地蔵菩薩像・仁王像

教恩寺阿弥陀如来像南都焼討をした平重衡念持仏で頼朝が重衡に与えたものと伝えられています。)

延命寺地蔵菩薩像

補陀洛寺の日光・月光菩薩像

来迎寺の阿弥陀三尊像

英勝寺阿弥陀三尊像

圓應寺閻魔大王像

などが運慶作と伝えられていますが、真作とされたものはありません。




運慶


運慶 祈りの空間


運慶願経








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東大寺大仏殿にも運慶仏があった!
東大寺大仏殿

東大寺南大門の金剛力士像は
運慶作!
東大寺南大門

興福寺北円堂の
南都焼討後の復興仏は運慶作!
興福寺北円堂


東大寺

興福寺



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