別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2026年7月28日火曜日

鶴岡八幡宮一の鳥居の創建はいつ?




鶴岡八幡宮一の鳥居浜の大鳥居)は、参道の若宮大路の南端にある鳥居ですが、1180年(治承4年)に源頼朝が創建したものと伝承されています。

『吾妻鏡』によると、この年の10月、鎌倉を本拠とした頼朝は由比若宮を現在地に遷座。

12月には鶴岡若宮に鳥居を建てています。

この『吾妻鏡』の記事が創建年の根拠となっているようですが・・・

このとき参道の若宮大路は造営されていません。

若宮大路が造営されるのは1182年(養和2年)のことですので、1180年(治承4年)に建てられたのは社殿のすぐ前の鳥居と考えられます。

近年では、若宮大路造営時の1182年(養和2年)の創建とする説が有力となっています。




鶴岡八幡宮浜の大鳥居

鶴岡八幡宮大鳥居


若宮大路

段葛


源頼朝の鎌倉入りと鶴岡八幡宮新宮若宮

鶴岡八幡宮


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2026年7月26日日曜日

弦巻田を放生池にした源頼朝~鶴岡八幡宮源平池~


『吾妻鏡』によると、1182年(養和2年)4月24日、源頼朝鶴岡八幡宮の周辺にあった「絃巻田」という水田を池としています。


弦巻田

「絃巻田」は、神へ捧げる為の米を栽培する斎田で、苗を渦巻き状に植える水田と考えられています(諸説あり)。

もしかすると、源頼義が由比郷に建てた由比若宮の神に供える米を栽培していた可能性も。


源平池 紅白の蓮と島


頼朝は造営したのは、「捕らえた魚や鳥などの生き物を殺さずに自然の川や池に放す」という仏教の教えである「放生」や「放生会」を行うための放生池です。

生き物を放つ行為は、自らの罪を清め、功徳(善い行い)を積むためのもの。

頼朝は、1180年(治承4年)に由比若宮を現在地に遷座していますが、戦による戦死者の供養と源氏の繁栄を祈願するため、わざわざ神の水が湧く地を選んだのかもしれません。

そして、1187年(文治3年)には、大規模な放生会を催しています。

この放生会が現在の鶴岡八幡宮例大祭の起源といわれています。



鶴岡八幡宮の源氏池と平家池

鶴岡八幡宮例大祭


鶴岡八幡宮


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鶴岡八幡宮の太鼓橋~赤橋と呼ばれていた橋~




鶴岡八幡宮太鼓橋は、1182年(養和2年)に源頼朝が放生池(源平池)を造営した際に架けられたと考えられています。

現在の太鼓橋は、橋脚・橋桁が鉄筋コンクリート製、橋床版・欄干が石製ですが、頼朝が架けた当時は朱塗りの木橋だったようです。

そのため「赤橋」と呼ばれていました。

北条氏の庶流「赤橋流」の苗字は、この赤橋の近くに屋敷があったことに由来しています。



鶴岡八幡宮の太鼓橋

鶴岡八幡宮の源氏池と平家池


鶴岡八幡宮


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2026年7月25日土曜日

源頼朝の鶴岡八幡宮参道~頼朝の都市計画~




1182年(養和2年)、源頼朝に造営された鶴岡八幡宮の参道「若宮大路」は、平安京の朱雀大路を模したものだったと言われています。

朱雀大路は船岡山を測量基準点として真南に引かれた道で、その上に大極殿羅城門が配置されました。

若宮大路鶴岡八幡宮の北の十王岩(正確には近くの岩塊)を測量基準点として引かれた道と考えられています。

平安京でいう船岡山十王岩大極殿鶴岡八幡宮羅城門一の鳥居



若宮大路

段葛

十王岩

鶴岡八幡宮浜の大鳥居

鶴岡八幡宮大鳥居


鶴岡八幡宮


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2026年4月1日水曜日

土肥焼亡の舞~源頼朝旗挙げ武者行列 4月5日湯河原町~


1180年(治承4年)、以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発します。

伊豆の流人だった源頼朝は、8月17日に挙兵。

8月20日には相模国へと進軍しますが、8月24日、石橋山で大敗。

山中を彷徨い、一時、箱根権現に身を潜めますが、土肥実平の案内で土肥郷へ下り、8月28日、真鶴から安房国へと船出します。

その途中の山上から実平が見たのは、敵将伊東祐親が放った火によって、実平の本拠土肥郷が燃える光景でした。

我が家が燃えるのを見た実平は、頼朝の前で即興の謡で舞います。

「八幡大菩薩の光を受けて、平家を滅ぼし天下と四方の海を照らせば、我らの子孫も反映する。

我家は何度でも焼けばよい。

頼朝が天下を取れば、土井の杉山の木で造り替えることができる・・・」

実平は源氏の勝利を信じ、子孫の繁栄を願って舞ったのだいいます。



湯河原町で毎年4月に開催されている「源頼朝旗挙げ武者行列」では、五所神社・桜木公園・城願寺で実平の「焼亡の舞」が再現されます。

2026年は4月5日(日)。


土肥祭


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



頼朝が安房へ向けて船出した浜は、真鶴町の岩海岸といわれています。

岩海岸に通じる道は謡坂(うたいざか)。

実平は、この坂で頼朝の無事と再起を願って謡い踊ったのだと伝えられています。

真鶴町では3月22日に「源頼朝旗挙祭」が開催されました。


源頼朝旗挙祭


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


湯河原・真鶴の源頼朝伝説

歴史めぐり源頼朝


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2026年3月29日日曜日

鵐窟縁起の碑~真鶴 鵐窟:源頼朝伝説の石碑~


『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、石橋山の戦いに敗れ、真鶴から安房へと船出しています。


船出した浜は岩海岸、船出まで潜伏していた洞穴が鵐窟(しとどのいわや)と伝えられています。

頼朝が鵐窟に滞在している間、食料を提供した者は「五味」、警護にあたった者は「御守」、樹木で洞穴を覆い隠した者は「青木」の名字を賜ったのだとか。

以来、「真鶴の三名家」と言い伝えられてきました。




「真鶴の三名家」の一つ五味家の演貞は、1645年(正保2年)、僧・蔭山に依頼して『鵐窟縁起』を作成。

頼朝の伝説を後世に伝えるため、その紀文と頼朝の絵像を鵐窟の岩石に刻みました。

それが「鵐窟縁起の碑」で、現在は真鶴町民センター入口に置かれています。

『鵐窟縁起』には、石橋山の戦いに敗れた頼朝が村人の助けを得て、安房へと渡り、その後鎌倉に幕府を開き古今天下泰平の世を築いたことが記されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鵐窟

鵐窟は、かつては海に面した巌窟で、船でなければ辿り着くことができなかったそうです。

伝説によると、頼朝を探す大庭軍が巌窟に踏み込もうとしますが、鵐(しとど)という鳥が群れを成して飛び立っていったため、「人はいない」と判断して立ち去っていったのだとか。

鵐は架空の鳥。




頼朝が船出した岩海岸には、「源頼朝開帆處(かいはんしょ)の碑」が建てられています。




岩海岸では、2025年から「源頼朝旗挙祭」が開催され、巨大鍋で料理された「頼朝旗挙げ鍋」が振舞われます。

2026年は3月22日に開催されました。




源頼朝船出の浜 真鶴町


源頼朝旗挙祭


土肥祭


湯河原・真鶴の源頼朝伝説

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2026年3月17日火曜日

金王桜まつり2026~金王八幡宮の花見と金王丸尊像御開帳~




東京渋谷にある金王八幡宮は、源頼朝の父源義朝に仕えた金王丸の名がつけられた神社。

金王丸は、源義経を襲撃した土佐坊昌俊と同一人物ともいわれます。




そして、社殿前に植えられている金王桜は、源頼朝が鎌倉の亀ヶ谷館(壽福寺)から移植させたという「憂忘桜」(うわわすれのさくら)。

鎌倉の材木座原産という桐ヶ谷と同じで、八重と一重の花が混生している珍しい桜。

毎年、見ごろとなる時期に「金王丸祭」と「金王桜まつり」が行われています。

年に一度の金王丸尊像の開帳も。




【金王丸祭】
3月28日(土)
11:30~12:00

【金王丸尊像特別開帳】
3月28日(土)
11:30~14:00

【金王丸桜まつり】
3月28日(土)
12:00~17:00
3月29日(日)
11:00~17:00

境内には、屋台物販等の出店や飲食スペースも!


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


金王桜まつり





金王八幡宮は、渋谷駅東口から徒歩6分。


金王桜




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鎌倉の桜


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