別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2026年4月4日土曜日

遠藤直経~姉川の戦いで信長を討とうとした武将~


太平記英勇伝三十一
遠藤喜右衛門春元
(歌川芳幾画)


遠藤直経は、浅井長政の家臣。

通称は喜右衛門。

武勇に優れ「浅井四翼」(あざいしよく)に数えられることも。

織田信長が長政を訪問した際、「後の禍根を断つために今殺すべきだ」と長政に暗殺を献策しましたが、長政に却下されたという逸話で知られています。

浮世絵や軍記物では、遠藤喜右衛門春元という表記も。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


直経の主君長政は、信長と同盟を結んだ義兄弟の間柄でしたが、1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いで長政が離反。

信長は命からがら京都へ逃げ帰りました。

その2か月後・・・

信長が徳川家康と共に、浅井・朝倉連合軍と対峙します(姉川の戦い)。

戦いは信長・家康連合軍が勝利しますが、浅井軍の敗北が決定的になった際、直経は・・・

自軍の武将の首を携え、織田軍の武将になりすまして信長の本陣に忍び込みます。

そして、信長を討ち取ろうとしますが、寸前のところで信長の家臣・竹中重矩に見破られ、討取られたとのだと伝えられています。

竹中重矩は竹中半兵衛の弟で、直経とは竹生島で面識があったのだとか。



📎織田信長包囲網~金ヶ崎の戦い・姉川の戦い・志賀の陣~

📎武田信玄の西上作戦~信長包囲網 上洛途上で死去した甲斐の虎~


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琵琶湖に浮かぶ竹生島は、北近江を支配した浅井氏が信仰した「神の棲む島」。

浅井長政は、1558年(永禄元年)に焼失した竹生島神社宝厳寺の復旧資材を寄進し続けていたのだといいます。

遠藤直経も竹生島の管理に関わっていたようです。

1573年(天正元年)の小谷城の戦いで浅井氏は滅亡した後、羽柴秀吉は長浜城を築きますが、長政が寄進した資材や小谷城で使われていた資材を流用して築城されたのだと伝えられています。




長浜城

長篠の戦い

甲州征伐・天目山の戦い

本能寺の変

賤ヶ岳の戦い


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2026年4月3日金曜日

信長包囲網~金ヶ崎の戦い・姉川の戦い・志賀の陣~


1568年(永禄11年)、美濃の岐阜城を本拠とし「天下布武」を掲げた織田信長が、足利義昭を奉じて上洛。

信長は義昭を将軍に据えますが、それは義昭に従うということではなく、傀儡化して畿内支配を独自に進めるためでした。

信長に行動を制約されて主導権を信握られた義昭は・・・

信長の影響力を削ぐために各地の有力大名や宗教勢力へ「御内書(将軍の公文書)」を送り、共同戦線を張るよう呼びかけます。

これにより形成されたのが「織田信長包囲網」。

東西から信長を挟み撃ちにするもので、当初の主要メンバーは・・・

浅井長政・朝倉義景・三好三人衆などや、宗教勢力の本願寺(顕如)・比叡山延暦寺など。

「織田信長包囲網」が形成されるきっかけとなったのが1570年(元亀元年)4月の金ヶ崎の戦い。

信長が越前の朝倉義景を攻撃したものですが、信長と同盟関係にあった北近江小谷城の浅井長政が旧縁の深い朝倉家を助けるために突如離反。

長政に背後を襲われた信長は、命からがら京都へ逃げ返っています。

同年6月、信長は姉川の戦いで徳川家康と連合して浅井・朝倉連合軍に勝利して北近江での優位を確立しましたが、9月、信長が摂津で三好三人衆らと対峙している隙を突いて、浅井・朝倉連合軍が京都へ向けて進軍。

連合軍は近江へ侵攻し、信長の重臣・森可成が守る宇佐山城を攻撃し、可成が討死しています(宇佐山城の戦い)。

その後、連合軍は比叡山延暦寺に立て籠もり、信長は約3ヶ月にわたって対峙しました(志賀の陣)。

12月、将軍・足利義昭や関白・二条晴良らの仲介により、信長と浅井・朝倉の間で和睦が成立し、両軍は撤兵。

これにより第一次包囲網は一旦解体されましたが、信長と将軍・義昭の対立は深まり、後に武田信玄が加わる「第二次信長包囲網」へと発展していくことに。




長浜城

長篠の戦い

甲州征伐・天目山の戦い

本能寺の変


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2026年3月15日日曜日

浅井家最強の家臣 遠藤直経~信長を暗殺しようとした謀将~


『繪本豐臣勲功記』
(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース


1565年(永禄8年)の永禄の変で、室町幕府の十三代将軍足利義輝が殺害された後、室町幕府再興のため越前の朝倉義景を頼っていた義輝の弟義昭は、1568年(永禄11年)、義景を見限り岐阜の織田信長を頼ります。

信長は義景を将軍とするため上洛を計画しますが、上洛を果たすためには北近江の小谷城を本拠としていた浅井長政との同盟は不可欠でした。

信長は自身の妹であるお市の方を長政に嫁がせ、義兄弟の契りを結ぶことで強固な協力関係を築こうとします。


天下布武


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『真書太閤記』などによると・・・

1568年(永禄11年)8月7日、信長は上洛の前に長政と対面するため浅井領の佐和山へ赴きます。

佐和山城で饗応を受けた信長は、義昭を擁して上洛することを相談したようですが、長政の重臣・遠藤喜右衛門(直経)は、信長の野心をいち早く見抜き、浅井家にとって危険な存在である信長を今のうちに毒を用いて暗殺すべきと考えます。

その事を長政に相談しようとしますが、長政は座を立とうとしなかったため、密かに小谷へ帰り、長政の父久政にに謀略の許可を得ようとします。

しかし、久政に「人の道に反する。たとえ成功したとしても信長を恐れて毒を盛ったとなれば弓箭の家の恥」と断られてしまったのだか。

それでも・・・

信長を殺さなければ後々後悔することになると思い定めていた喜右衛門は、佐和山に戻ると信長と刺し違えようとしますが、木下藤吉郎の機転によって阻止されたのだと伝えられています。

その後、長政とお市の方の婚儀が執り行われますが・・・

喜右衛門は、「成菩提院に宿泊している信長を討つべき」と長政に進言したが受け入れられなかったとも伝えられています。


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1568年(永禄11年)9月7日、織田信長は、足利義昭を擁して岐阜城を出発。

上洛の従軍要請を拒んだ六角義賢・義治父子を破り、9月26日入京。

義昭の兄義輝を殺害した三好勢を掃討し、10月には義昭を征夷大将軍に就任させました。

当初、信長と義昭は協力関係にありましたが、次第に信長が義昭の権限を制限するようになり対立。

義昭は将軍の権威を用いて各地の有力大名を動かすようになります(信長包囲網)。

信長と同盟を結んでいた浅井長政も、信長が浅井氏旧縁の朝倉氏を攻撃したことで義昭が呼びかけた打倒信長の共同戦線に加わり、信長を窮地に追い込みますが・・・

武田信玄の急死などにより包囲網が崩壊すると、信長は総攻撃を開始。

1573年(天正元年)、朝倉氏が滅亡、その直後に小谷城も落城し、長政は自害して浅井氏は滅亡しています。

信長を危険な存在と見抜いていた遠藤喜右衛門は・・・

姉川の戦いで自軍の敗戦が色濃くなると、信長軍の武将になりすまし、自身が討取ったとする武将の首を持参して信長の本陣に潜入し、信長を討ち取ろうとしました。

しかし、寸前のところで信長の家臣・竹中重矩に見破られ、討取られたのだと伝えられています。


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大和郡山城


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2026年3月8日日曜日

竹中半兵衛の「十面埋伏の計」~織田信長を敗走させた新加納の戦い~




新加納の戦いは、美濃の稲葉山城を攻略したい織田信長と稲葉山城を本拠としていた斎藤龍興との合戦。


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1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が戦死した後、幾度も美濃に侵攻するも攻略できなかった信長。

何とかしたい信長は、1563年(永禄6年)4月、木曽川を渡って美濃国へ侵入し、新加納(現在の岐阜県各務原市付近)でで龍興軍と激突しました。

兵力では勝っていたといわれている信長軍がですが、龍興の家臣・竹中半兵衛の伏兵策に翻弄されて大敗北を喫してしまいます。


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十面埋伏の計

竹中半兵衛のとった作戦は・・・

稲葉山へと進軍する信長軍に対し、美濃勢は抵抗しきれないとみせかけるため後退を始めます。

信長軍は一挙に稲葉山城に迫ろうとしますが、敵を十分に引き入れたと判断した竹中半兵衛は反撃命令を発します。

待ち構えていた美濃勢が信長軍へ突入すると、信長軍は総崩れとなって全滅寸前にまで追い詰められ、信長は尾張に逃げ帰ったのだとか。

この作戦は、四方八方に伏兵を配置して敵を囲み、逃げ場を失わせる「十面埋伏の計」を応用したものだったと伝えられています。


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木下藤吉郎秀吉は?

この合戦で殿(しんがり)を命じられていた木下藤吉郎秀吉は、総崩れとなった信長軍の後方に陣を構えていましたが・・・

「信長本陣が危うい!」との知らせ届いても、一向に動こうとしません。

やがて、夕暮れが迫ろうとした頃、秀吉が筵端(むしろばた)を高く掲げさせると、稲葉山一帯に松明の火が転々と浮かび上がります。

秀吉が狩り出していた尾張の百姓の仕業でした。

慌てた美濃勢が包囲をといて城へ引きあげてしまったため、竹中半兵衛は信長を打ち漏らしてしまったのだとか。


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稲葉山城を占拠した半兵衛

新加納の戦いの翌年、竹中半兵衛は、たった16人の手勢で難攻不落といわれた稲葉山城を占拠。

斎藤龍興の乱政を諫めるためと伝えられています。

織田信長は「城を譲れば美濃の半分を与える」と持ちかけたようですが、半兵衛はこれを断り、半年後には龍興に城を返却して隠遁。

この事件を機に美濃への圧力を強めた信長は、1567年(永禄10年)、美濃へ侵攻。

斎藤龍興が稲葉山城を追われと、半兵衛は斎藤家を去っています。

その後、半兵衛は、北近江の浅井長政、織田信長、次いで羽柴(豊臣)秀吉に仕えることに。


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岐阜城は、稲葉山城と呼ばれた山城。

源頼朝頼家に仕えた二階堂行政が築いた砦が始まりとする伝承もありますが、本格的な築城は戦国時代。

1539年(天文8年)、斎藤利政(道三)・義龍・龍興の三代の居城でしたが・・・

1567年(永禄10年)、織田信長が奪取(稲葉山城の戦い)。


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2025年10月25日土曜日

2026年は午年。青馬「池月」が現れた千束八幡神社


千束八幡神社


東京都大田区の洗足池に鎮座する千束八幡神社は「旗挙げ八幡」とも呼ばれる古社。

1180年(治承4年)、この地に陣を構えて諸将の参陣を待ったという源頼朝の前に野馬が飛来。

「池に映る月影のよう」であったことから「池月」と名付けられたのだとか・・・

千束八幡神社は名馬池月発祥の社。


名馬池月

1184年(寿永3年)の木曽義仲追討(宇治川の戦い)の際に頼朝から池月を与えられた佐々木高綱は、同じく磨墨を与えられた梶原景季宇治川の先陣争いを繰り広げました。

池月は、その余生を高綱館があった鳥山(横浜市港北区)で過ごしたのだといわれています。

高綱は鳥山に駒形明神を建てたと伝えられていますが、今はなく、その代わりに馬頭観音堂が残されています。


千束八幡神社
池月の絵馬

池月は、青い毛並みで白の斑点を浮かべていたのだとか。

古代の宮中では正月7日に「白馬節会」(あおうまのせちえ)が行われ、青馬を見ることでその一年の邪気が除かれるとされてきました。

白馬」と書かれるようになったのは平安中期頃からで、それまでは青馬が用いられてきましたが、白馬を用いるようになったために名称が変化したのだとか。




千束八幡神社


名馬 池月








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鎌倉 初詣情報


鎌倉 新年のイベント


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2025年4月14日月曜日

富士山本宮浅間大社~源頼朝・北条義時が崇敬した社~



富士山本宮浅間大社は富士山の噴火を鎮めるために建てられた社。



噴火を鎮めるためには水が必要。

そのため清水の湧く地に遷座されたのではないかといわれています。




富士山本宮浅間大社の祭神「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)は、源頼朝北条義時が崇敬した三嶋大社の祭神「大山祗神」(おおやまつみのかみ)の娘。

源頼朝は、1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に流鏑馬を奉納しています。

北条義時は、1223年(貞応2年)6月20日に「遷宮の儀」を執り行っています。



富士山本宮浅間大社の流鏑馬は、頼朝が奉納したことに始まるのだと伝えられています。

毎年5月4日・5日・6日には流鏑馬まつりが開催され、5日の本祭では小笠原流斎藤支教場の方々による流鏑馬が奉納されています。


桜の馬場

富士山浅間大社の御神木は桜。
流鏑馬は桜の馬場で催されます。


富士山本宮浅間大社


世界文化遺産 富士山


小笠原流流鏑馬








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富士裾野の巻狩り

狩宿の下場ザクラ

曽我兄弟の仇討ち

巻狩りと仇討ち

白糸の滝


歴史めぐり源頼朝


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