別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2026年4月25日土曜日

竹生島~浅井長政が信仰した神の島~




琵琶湖に浮かぶ竹生島は、古くから弁才天と観音の聖地として信仰されてきた島。

戦国時代に北近江を支配した浅井氏三代の領内にあったことから、浅井氏にとっては極めて重要な信仰の場でした。

1558年(永禄元年)の「永禄の大火」で島内の堂塔・社殿がことごとく焼失しまうと・・・

三代当主の浅井長政は島内の宝厳寺竹生島神社の復興に深く関わり、織田信長との戦いで籠城中であったにもかかわらず、復興のための材木を筏を組んで島へ運ばせていたのだといいます。

信長も、この復興作業を攻撃せず黙認していたのだと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


宝厳寺竹生島神社は、明治の神仏分離までは一体化した宗教施設でした。



宝厳寺には浅井長政の父久政や祖母寿松が奉納した弁財天が祀られています。



竹生島神社には浅井氏の氏神・浅井比売命が祀られています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1573年(天正元年)、浅井長政の小谷城が織田信長に攻められ、浅井氏は滅亡。

竹生島の復興資材は・・・



北近江の地を与えられた羽柴秀吉が蓄えられていた材木を長浜城の築城に流用しています。

長浜城は、小谷城の部材や竹生島の復旧資材などを集めたことで短期間で完成しますが・・・

資材を没収された竹生島の復興は滞ることに。

竹生島の伽藍を復興させたのは、浅井長政の長女・茶々(淀殿)が産んだ豊臣秀頼でした。

現在の唐門観音堂舟廊下竹生島神社本殿は、秀頼が秀吉ゆかりの建物を移築したもの。



竹生島


宝厳寺

竹生島神社


長浜城


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2026年4月16日木曜日

祇園祭の「蟷螂山」と小田原の老舗「ういろう」




京都の祇園祭の山鉾巡行に登場する「蟷螂山」(とうろうやま)は、山鉾の中で唯一、巡行中に動く「からくり」が施されているもの。

「小田原のういろう」で知られる外郎家(ういろうけ)の二代当主・宗奇(そうき)が創始したのだといいます。

宗奇は、現在の京都市中京区蟷螂山町に屋敷を構えていましたが・・・

近くには南北朝時代に南朝の重鎮として活躍し、後村上天皇を逃がすため討死にた公卿・四条隆資の屋敷がありました。

宗奇は隆資の死後25年の節目に、四條家の御所車に蟷螂を乗せて巡行。

それが「蟷螂山」の始まりなのだとか。





「株式会社ういろう」は、外郎家が営む小田原で存続する最古の企業。

家伝の万能薬「透頂香」(とうちんこう)と和菓子の「ういろう」を製造・販売する老舗です。



祇園祭の蟷螂山と小田原外郎家


祇園祭

小田原城


北條五代祭り


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2026年4月4日土曜日

遠藤直経~姉川の戦いで信長を討とうとした武将~


太平記英勇伝三十一
遠藤喜右衛門春元
(歌川芳幾画)


遠藤直経は、浅井長政の家臣。

通称は喜右衛門。

武勇に優れ「浅井四翼」(あざいしよく)に数えられることも。

織田信長が長政を訪問した際、「後の禍根を断つために今殺すべきだ」と長政に暗殺を献策しましたが、長政に却下されたという逸話で知られています。

浮世絵や軍記物では、遠藤喜右衛門春元という表記も。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


直経の主君長政は、信長と同盟を結んだ義兄弟の間柄でしたが、1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いで長政が離反。

信長は命からがら京都へ逃げ帰りました。

その2か月後・・・

信長が徳川家康と共に、浅井・朝倉連合軍と対峙します(姉川の戦い)。

戦いは信長・家康連合軍が勝利しますが、浅井軍の敗北が決定的になった際、直経は・・・

自軍の武将の首を携え、織田軍の武将になりすまして信長の本陣に忍び込みます。

そして、信長を討ち取ろうとしますが、寸前のところで信長の家臣・竹中重矩に見破られ、討取られたとのだと伝えられています。

竹中重矩は竹中半兵衛の弟で、直経とは竹生島で面識があったのだとか。



📎織田信長包囲網~金ヶ崎の戦い・姉川の戦い・志賀の陣~

📎武田信玄の西上作戦~信長包囲網 上洛途上で死去した甲斐の虎~


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琵琶湖に浮かぶ竹生島は、北近江を支配した浅井氏が信仰した「神の棲む島」。

浅井長政は、1558年(永禄元年)に焼失した竹生島神社宝厳寺の復旧資材を寄進し続けていたのだといいます。

遠藤直経も竹生島の管理に関わっていたようです。

1573年(天正元年)の小谷城の戦いで浅井氏は滅亡した後、羽柴秀吉は長浜城を築きますが、長政が寄進した資材や小谷城で使われていた資材を流用して築城されたのだと伝えられています。




長浜城

長篠の戦い

甲州征伐・天目山の戦い

本能寺の変

賤ヶ岳の戦い


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2026年4月3日金曜日

信長包囲網~金ヶ崎の戦い・姉川の戦い・志賀の陣~


1568年(永禄11年)、美濃の岐阜城を本拠とし「天下布武」を掲げた織田信長が、足利義昭を奉じて上洛。

信長は義昭を将軍に据えますが、それは義昭に従うということではなく、傀儡化して畿内支配を独自に進めるためでした。

信長に行動を制約されて主導権を信握られた義昭は・・・

信長の影響力を削ぐために各地の有力大名や宗教勢力へ「御内書(将軍の公文書)」を送り、共同戦線を張るよう呼びかけます。

これにより形成されたのが「織田信長包囲網」。

東西から信長を挟み撃ちにするもので、当初の主要メンバーは・・・

浅井長政・朝倉義景・三好三人衆などや、宗教勢力の本願寺(顕如)・比叡山延暦寺など。

「織田信長包囲網」が形成されるきっかけとなったのが1570年(元亀元年)4月の金ヶ崎の戦い。

信長が越前の朝倉義景を攻撃したものですが、信長と同盟関係にあった北近江小谷城の浅井長政が旧縁の深い朝倉家を助けるために突如離反。

長政に背後を襲われた信長は、命からがら京都へ逃げ返っています。

同年6月、信長は姉川の戦いで徳川家康と連合して浅井・朝倉連合軍に勝利して北近江での優位を確立しましたが、9月、信長が摂津で三好三人衆らと対峙している隙を突いて、浅井・朝倉連合軍が京都へ向けて進軍。

連合軍は近江へ侵攻し、信長の重臣・森可成が守る宇佐山城を攻撃し、可成が討死しています(宇佐山城の戦い)。

その後、連合軍は比叡山延暦寺に立て籠もり、信長は約3ヶ月にわたって対峙しました(志賀の陣)。

12月、将軍・足利義昭や関白・二条晴良らの仲介により、信長と浅井・朝倉の間で和睦が成立し、両軍は撤兵。

これにより第一次包囲網は一旦解体されましたが、信長と将軍・義昭の対立は深まり、後に武田信玄が加わる「第二次信長包囲網」へと発展していくことに。




長浜城

長篠の戦い

甲州征伐・天目山の戦い

本能寺の変


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2026年3月12日木曜日

「お市の方」と「浅井長政」~織田信長上洛と政略結婚~


1567年(永禄10年)、美濃攻略に成功し、稲葉山城を本拠とした織田信長は、翌年、室町幕府十二代将軍・足利義晴の子義昭を奉じて上洛し、室町幕府の再興を果たしていますが・・・

この上洛するにあたって、信長は妹のお市の方と北近江の小谷城主の浅井長政を結婚させます。

上洛を成功させるための政略結婚でした。

信長が本拠としていた岐阜城から都に行くためには、近江国を通る必要があります。

信長は、北近江を支配する浅井氏と同盟を結ぶことで背後の安全を確保したのです。

同盟を結ぶにあたって長政は、「浅井氏の盟友だった越前の朝倉氏を攻撃しない」ことを絶対条件として提示したといわれています。


天下布武


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お市の方と長政の仲は良かったと伝えられ、茶々という三人の娘(浅井三姉妹)を授かっています。

しかし、1570年(元亀元年)、信長が長政との約束を破り、越前の朝倉義景を攻めます。

理由は、義景が再三の上洛命令を無視したため。

さらに、信長に反発した将軍・義昭が、義景らに信長追討の密書を送っていたことも、両者の対立を決定的にしたようです。

この戦いで信長は、「妹のお市を嫁がせた義弟の長政が裏切るはずがない」と高を括っていたようですが・・・

金ヶ崎の戦いでは、長政は義景方につき信長を窮地に追い込んでいます。

この出来事がきっかけとなり、信長と長政は泥沼の戦争状態へと突入。

1573年(天正元年)、小谷城が落城し浅井家は滅亡しました(長政享年29)。



(長浜市 徳勝寺)

徳勝寺は小谷城の戦いで滅亡した戦国大名・浅井氏の菩提寺。

小谷城主の亮政・久政・長政三代の墓が建てられています。


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(北ノ庄城址)

浅井長政が滅ぼされた後、お市の方は3人の娘とともに岐阜城で暮らしていましたが・・・

本能寺の変後、越前国北ノ庄の柴田勝家と再婚。

しかし、勝家が羽柴秀吉との戦いに敗れたため、北ノ庄城で自害(享年37)。


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2026年1月20日火曜日

京都 総神社~源義経の父義朝の神霊が祀られている社~


総神社は、源義経の誕生地とされる紫竹に鎮座する社。




平安時代末期、総神社付近には義経の父源義朝の別邸があって、妾だった常盤御前は、そこで牛若丸(義経)を出産したのだと伝えられています。

紫竹には、常盤御前が安産を祈願した常徳寺、常盤御前の守り本尊が安置されている光念寺牛若丸誕生井などの寺社・史跡が点在しています。





源義経

源義朝


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源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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