別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年8月2日土曜日

定朝から成朝・康慶そして運慶


定 朝


定朝は、平安時代に寄木造の技法を完成させた仏師。

1022年(治安2年)、藤原道長が建てた法成寺の造仏を担当し、仏師としては初めて法橋の地位を与えられました。



1053年(天喜元年)、平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落成。

鳳凰堂は、法成寺の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれ、本尊の阿弥陀如来は定朝が造立しました。

この像が定朝作と特定できる唯一のものとなっています。


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奈良仏師


鎌倉時代に活躍した奈良仏師は、定朝の孫頼助が始祖。

頼助は興福寺を拠点に活動し、その後、康助→康朝→成朝と父から子へ受け継がれていきます。

成朝没後に正系は途絶えてしまいますが、傍系の康慶、運慶らの慶派に受け継がれていくことになります。


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成 朝


『吾妻鏡』によると・・・

1185年(元暦2年)5月21日、成朝は源頼朝の南御堂(勝長寿院)の本尊造仏のため鎌倉に下向。

10月21日には、金色の阿弥陀仏が勝長寿院に運び込まれています。

しかし、その後も鎌倉に滞在していたため、奈良大仏師の地位が他派に脅かされることとなっていたようです。

翌年3月2日、成朝は頼朝興福寺の造仏を他の仏師にやめさせるようにと訴え、頼朝は成朝を擁護する書状を京都に出しています。




成朝は1185年(元暦2年)に鎌倉に下るまで、興福寺東金堂の造仏を手掛けていたのだといいます。

しかし、成朝が鎌倉に滞在している間に、院派の院性(院尚)が東金堂の造仏を望み、奈良大仏師の称号を欲していると知らされたようです。

院派も定朝の流れを汲む仏師の一派で定朝の孫とされる院助を祖としていました。




奈良は、1180年(治承4年)に平清盛の命を受けた平重衡によって焼かれ(南都焼討)、興福寺東大寺が灰燼に帰しました。

興福寺復興にあたって成朝は、東金堂と食堂の造仏を任されたようです。

ただ、食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に飛鳥山田寺から奪取したものが充てられているようです。

参考までに、運慶の父康慶は南円堂の造仏を任されています。



南円堂の不空羂索観音菩薩像・法相六祖坐像・四天王立像は康慶とその弟子によって造立されたもの。

康慶は成朝の父康朝の弟子。


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運 慶


運慶は、南円堂の造仏を担当した康慶の子。

現在残されている最古の仏像は、1176年(安元2年)に完成させた奈良円成寺の大日如来像。

この像は父康慶とともに造り上げたものといわれています。


都の平氏が没落し東国の源氏が台頭すると、成朝は頼朝に近づきましたが、運慶も東国の武将に近づきます。

1186年(文治2年)には、北条時政に請われて伊豆韮山に下り、建設中の願成就院の造仏に携わっています。


願成就院

願成就院の毘沙門天像、不動三尊像の胎内からは、文治2年5月3日に北条時政の発願した仏像を運慶が造り始めたことが記された銘札が発見されています。

阿弥陀如来像も『吾妻鏡』に運慶造立の記述があることや、男性的で量感のある体躯からして運慶作と考えられています。


願成就院の造仏から3年後の1189年(文治5年)、和田義盛に請われた運慶は、浄楽寺の造仏に携わります。


浄楽寺

横須賀の浄楽寺は、和田義盛の創建と伝えられ、1206年(建永元年)、浄楽寺が大風で倒れた際、勝長寿院の一部を移したとも伝えられています。

阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像は、毘沙門天像の胎内から発見された銘札から、1189年(文治5年)に運慶が、和田義盛とその夫人小野氏のために造立したことが判明しています。

運慶の真作と判明するまで、阿弥陀三尊像は、勝長寿院から移されたものと伝えられていました。

つまり成朝作と伝わっていたことになります。


そして、代表作といえば、東大寺南大門の金剛力士像。


東大寺南大門

1180年(治承4年)、平重衡南都焼討で焼かれてしまった東大寺は、重源が中心となって復興にあたりました。

南大門は、1199年(正治元年)に上棟し、1203年(建仁3年)に金剛力士像が安置されて竣工しました。


東大寺の金剛力士像

1988年(昭和63年)から行われた金剛力士像の解体修理では、阿形像は大仏師運慶と快慶が小仏師13人を率いて造立し、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人を率いて造立したものであることも判明しています。


東大寺

大仏殿虚空蔵菩薩・如意輪観音と四天王像も運慶とその一派によって造立されたものだったと伝えられていますが、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火によって焼失してしまったといいます。




興福寺の中金堂の四天王立像(広目天・増長天・持国天・多聞天)は、北円堂に安置されていた運慶作の像ではないかと考えられている(国宝)。



北円堂の本尊木造弥勒菩薩坐像は、1212年(建暦2年)、運慶らによって造立されたもの。

木造無著・世親菩薩立像も弥勒菩薩坐像と同時期に、運慶の指導のもとに造立されたもの。

2025年(令和7年)9月9日から、東京国立博物館で北円堂の運慶仏が展示公開される予定です。




運慶


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間












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東大寺

興福寺


源義経をめぐる京都


歴史めぐり源頼朝



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2025年7月31日木曜日

甲府城と大和郡山城~柳沢吉保と吉里~




甲府城は武田氏滅亡後に築かれた城ですが、ここは甲斐武田氏初代当主・武田信義の子・一条忠頼の居館があった地。

1704年(宝永元年)、徳川五代将軍綱吉の側用人として活躍した柳沢吉保が城主となりますが・・・

吉保は一条忠頼から始まる一条氏の末裔といわれています。

吉保が甲府城に入城したことはなかったようですが、城主となった翌年、吉保は甲斐武田氏十九代当主・武田信玄の百三十三回忌法要を恵林寺で執り行い、武田氏に連なる一族であることを強調したのだといわれています。

同年、信玄躑躅ヶ崎館の麓に菩提寺となる永慶寺を創建しています。

1709年(宝永6年)、綱吉が亡くなると、儒者新井白石が権勢を握るようになり、吉保も幕府の役職を辞し、長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居。

1710(宝永7年)には、吉保の子吉里が城主になります。

それまでの甲府藩主は、国元で直接藩政に携わることはありませんでしたが、この時はじめて藩主が国元に入りました。

1714年(正徳4年)11月2日、吉保が死去。

遺骸は永慶寺に葬られています。




大和郡山城は、戦国時代に豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石の領主として入った城。

1724年(享保9年)には、甲府藩から郡山藩に移封された吉里が入城。

吉保が葬られた永慶寺も郡山城下に移されています。




甲府時代の永慶寺にあった吉保の墓は、信玄の菩提寺・恵林寺(甲州市)に改葬されました。

永慶寺に伝えられる柳沢吉保と夫人坐像は、甲府の仏師・大下浄慶(常慶)とその子息の作で、浄慶は恵林寺武田不動明王を制作した京の仏師・康清の子孫といわれています。

山門は大和郡山城の城門を移築したもの。



大和郡山城本丸跡にある柳澤神社は、吉保を祀る社。



大和郡山城二の丸跡の柳澤文庫には、柳沢家歴代藩主の書画をはじめとする多くの歴史資料が保存されています。




甲府城


大和郡山城








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興福寺


運慶 祈りの空間



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2025年7月30日水曜日

興福寺北円堂の弥勒如来と鶴岡八幡宮の薬師如来~鎌倉と運慶~



興福寺北円堂の本尊木造弥勒如来坐像は、1212年(建暦2年)に運慶らによって造立されたもの(国宝)。



鶴岡八幡宮銅造薬師如来坐像

鶴岡八幡宮の神宮寺にあったという銅像薬師如来像は、北条政子が1211年(建暦元年)に安置させたものと考えられています(重文)。

その原型は、慶派仏師によるものと考えられ、北円堂の弥勒如来坐像に通じるものがあるのだといいます。

銅像薬師如来像は、明治の神仏分離により壽福寺の所蔵となっています(鎌倉国宝館に寄託)。


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参考までに・・・

運慶は、鎌倉幕府と関係が深い仏師。

北条時政願成就院の造仏、和田義盛浄楽寺の造仏で知られています。

源頼朝永福寺の造仏にも関わったと考えられ、北条義時大倉薬師堂の造仏も手掛けています。

そして、北条政子源実朝の養育係だった大弐局など鎌倉幕府の有力な女性とも結びついていました。

北条政子は、勝長寿院に建立した五仏堂の五大尊像(五大明王)を運慶に依頼しています。

称名寺の塔頭光明院大威徳明王像は、大弐局の発願で運慶が造立しました。




運慶


興福寺

鶴岡八幡宮



運慶 祈りの空間









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南都焼討


南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~


東大寺大仏殿落慶供養


東大寺


歴史めぐり源頼朝


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2025年7月29日火曜日

本家菊屋の御城之口餅・鶯餅~大和郡山城~


御城之口餅
(出典:農林水産省)


大和郡山城の門前にある本家菊屋は、豊臣秀長が城主だった頃からある老舗。

名物の「御城之口餅」は豊臣秀吉に献上されたという菓子。



NHK 大河ドラマ「豊臣兄弟!」
限定パッケージ



大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長








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源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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2025年7月28日月曜日

南都焼討の罪で処刑された平重衡の墓


平重衡は、平清盛の五男。

1180年(治承4年)12月12日、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発した以仁王を匿った園城寺を焼き払い、12月28日には、東大寺興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都を焼討ちしたことで知られる武将。

1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いで捕らえられ、一時、鎌倉の源頼朝のもとにいましたが、1185年(元暦2年)、平家が壇ノ浦で滅亡すると南都衆徒に引き渡されて、6月23日、木津川で斬首されました。



京都の日野にある平重衡の墓は、妻の藤原輔子が築いたもの。

木津川で斬首された重衡の首は奈良の般若寺に晒されましたが、輔子は東大寺再興の大勧進だった重源に請うて首をもらい受け、捨てられていた胴体とともに日野の法界寺で荼毘に付し、灰塚を築いて、骨は高野山に納めたのだと伝えられています。

重衡の供養の後、輔子は大原の寂光院に隠棲していた建礼門院に仕えて余生を過ごしたのだといいます。

建礼門院は重衡の姉。


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教恩寺

鎌倉の教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、源頼朝が「一族の冥福を祈るように」と重衡に与えたものだと伝えられています。




南都焼討


一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~








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