別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2024年8月23日金曜日
金色堂建立900年~道長の法成寺・頼通の平等院と奥州藤原氏~
平安時代、浄土信仰の広まりで阿弥陀堂の建立が盛んに行われました。
その始まりは慈覚大師(円仁)が延暦寺に建立した常行堂。
藤原道長が帰依した源信(恵心僧都)が修行をした横川の恵心堂は、浄土信仰発祥の地といわれています。
貴族階級が競うように阿弥陀堂を建立した中で、1020年(寛仁4年)に創建された道長の法成寺は最大規模のものだったようです。
法成寺の造仏を担当した定朝でした。
道長の没後、東北地方は戦乱の時代となります。
そして、陸奥・出羽の両国を手に入れることになったのが藤原清衡。
1105年(長治2年)、清衡は前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するための仏国土建設を開始。
中尊寺には多くの堂塔が建立され、1124年(天治元年)には清衡の廟堂としての阿弥陀堂(金色堂)が建立されました。
2024年(令和6年)は金色堂建立から900年。
『吾妻鏡』によると、堂内の阿弥陀三尊・二天・六地蔵は定朝の作。
宇治の平等院は、道長の別荘「宇治殿」を始まりとする寺。
1053年(天喜元年)に落成した阿弥陀堂(鳳凰堂)は、法成寺の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれています。
本尊の阿弥陀如来は定朝が造立しました。
『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏三代当主の藤原秀衡が平泉に建てた無量光院は、平等院を模していたのだといいます。
2023年4月30日日曜日
2022年7月5日火曜日
開花した中尊寺ハス~鎌倉:永福寺跡~2022/07/06
2022年5月30日月曜日
藤原泰衡が源頼朝に出した手紙~奥州征伐~
藤原泰衡は奥州藤原氏の第四代の当主。
藤原秀衡の次男。
次男ですが嫡男として育てられたようです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1187年(文治3年)10月29日、父の秀衡が亡くなります。
秀衡は、平泉に逃れていた源義経を主君として、源頼朝の攻撃に供えるように言い残したのだと伝えられていますが・・・
泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込みます。
泰衡は、義経の首を頼朝に差し出せば、頼朝との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、泰衡を征伐するため、畠山重忠を先陣に総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発。
8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山が頼朝軍に破られると、その報を受けた泰衡は、平泉館を焼き払い逃亡してしまいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
8月26日、泰衡は、頼朝に手紙を出しました。
その内容は・・・
「義経のことは、父秀衡が保護していたもので、私は全くその事の始まりがわかりません。
父の死後、ご命令のとおり義経を討ちました。
これは勲功というべきではないでしょうか。
そうであるのに、罪のないにも拘わらず、征伐されるというのはどういうことでしょう。
そのため、先祖代々の在所を去って、山林をさまよい、難儀しております。
陸奥・出羽の両国は、すでに沙汰されているのですから、泰衡についてはお許し頂き、御家人に列して頂きたいと思います。
さもなくば、死罪を減じていただき遠流にしてください。
もし御慈悲によって返答下さるのならば、比内郡辺りに置いてください。
その是非によっては帰還して参じたいと思います」
という助命嘆願でした。
頼朝は、これを受け容れず、比内郡内の探索を命じています。
そして、9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。
泰衡の首を持ってきた河田次郎は・・・
「先祖代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪にあたる」
として、斬罪に処せられています。
泰衡の首は、父祖の眠る中尊寺金色堂に納められました。
中尊寺の大池の「中尊寺ハス」は、泰衡の首桶から発見されたハスの種が発芽したものです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2022年の大河ドラマ
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