別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2023年12月17日日曜日

厭離穢土欣求浄土~神の君から光る君へ~





「厭離穢土欣求浄土」は、穢れた世界を厭い離れ、清浄な仏の国土に生まれることを願い求める思想。

この語を貴族や庶民にまでも普及させたのが恵心僧都源信の『往生要集』。

「厭離穢土欣求浄土」の思想を浄土信仰の基本とした源信は、穢土を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道とし、浄土には10種の楽のあることして、浄土での十楽を願い、穢土を厭い離れることを勧めた。



桶狭間の戦い後、窮地に立った徳川家康は、大樹寺の登誉天室に「厭離穢土欣求浄土」の思想を諭され生き抜く決意をした。



延暦寺恵心堂


比叡山横川にある恵心堂は、恵心僧都源信が修行をした所。

来年の大河ドラマは紫式部が主人公の「光る君へ」。

『往生要集』を著した恵心僧都源信は、『源氏物語』「宇治十帖」に登場する横川の僧都のモデルといわれる。




琵琶湖に浮かぶ浮御堂は恵心僧都源信の創建。



宇治の恵心院は恵心僧都源信が再興した寺。


紫式部は、『源氏物語』という架空の物語を書いたことで、五戒の一つ「不妄語戒」の罪(嘘をついてはいけない)で地獄に落とされたという噂があったらしい・・・

恵心僧都の教えをどのように思っていたのだろう・・・・









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

藤原彰子



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2023年12月16日土曜日

慈眼堂の徳川家康と紫式部の供養塔~神の君から光る君へ~


東照大権現供養塔
 (徳川家康)


徳川家康に仕えた天海の廟所・慈眼堂には、徳川家康の供養塔と紫式部の供養塔が建てられています。

2024年(令和6年)の大河ドラマは紫式部


紫式部の塔

紫式部塔の両側には、同時代に活躍した清少納言和泉式部の供養塔も。












☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

藤原彰子



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2023年12月13日水曜日

神となった徳川家康~久能山東照宮~




1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去した徳川家康は、久能山に葬られました。

その神廟(墓)は西を向いているのだといいます。

西にあるのは・・・



家康の母・於大の方が子授けの祈願をしたという鳳来寺

鳳来寺には、家康が尊敬していたという源頼朝が匿われていたという伝承もあります。




歴代将軍の位牌が納められている大樹寺



家康が生まれた岡崎城


☆ ☆ ☆ ☆ ☆




翌年2月には朝廷から「東照大権現」の神号が贈られ、12月には二代将軍徳川秀忠が東照社を創建。

家康の神号を決める際には、「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝天海が対立。

崇伝は「明神」を主張し、天海は「権現」を主張しましたが・・・

「明神」は豊臣秀吉の豊国大明神と同じとなり、豊臣家と同じ末路になるという天海の主張が受け入れられ、「権現」となったのだとか。




1646年(正保2年)には朝廷から宮号の宣下があり「東照宮」と呼ばれるようになります。

宮号宣下の交渉にあったのは高家今川家の祖・今川直房。

直房は、今川氏真の嫡男・範以の子。











☆ ☆ ☆ ☆ ☆

徳川氏発祥の地

松平氏発祥の地

家康生誕地

徳川家康出生伝説


東照宮



徳川家康


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2023年11月29日水曜日

富士山の雪解け水が湧き出す柿田川公園は泉頭城跡




静岡県駿東郡清水町を流れる柿田川は、富士山の雨や雪解け水が三島溶岩流にしみ込み、その先端から湧き出している地下水を源泉としている川。

現在は柿田川公園として整備されていますが、戦国時代には泉頭城(いずみかしらじょう)がありました。

小田原城北条氏康が甲斐国の武田信玄の侵攻に備えて築いた城で、武田氏滅亡後は駿府城徳川家康に備えるための前線基地として機能。

豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅びると廃城となりましたが、徳川家康は新たな城を築き隠居所とする計画を立てていたのだとか。

しかし、その計画はなくなり駿府城を隠居所としたようです。












東照宮



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