宇治川は京都防衛上の要衝。
1180年(治承4年)には、以仁王と源頼政が平家軍と戦いました。
1184年(元暦元年)には、源義経が宇治川を突破して木曽義仲を敗走させています。
1221年(承久3年)の承久の乱では、北条泰時が宇治川を突破し、朝廷軍を破りました。
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~北条泰時の宇治川の戦い~
1221年(承久3年)5月、後鳥羽上皇の挙兵に対して大軍を上洛させた幕府軍。
『吾妻鏡』によると・・・
6月13日、雨、北条泰時は宇治の栗小山に陣営を張りました。
足利義氏と三浦泰村は、泰時に知らせずに宇治橋で朝廷軍と合戦に及びますが、朝廷軍の発した矢石が雨のように幕府軍の兵たちに降り注ぎ、多くの者が負傷したので平等院に籠ります。
夜になって義氏は、泰時に使者を送ります。
その内容は、
「夜が明けるのを待って合戦に及ぼうと思っていたが、勇敢な兵どもは先陣を争って矢合戦を始めてしまい、多くの死傷者を出している」
というもの。
驚いた泰時は豪雨の中、宇治橋へ向かい、橋上での戦いを止めるように命じています。
翌14日早朝、前夜平等院で休息をとった北条泰時は、宇治川を渡って戦うこととします。
宇治川は、昨日の雨で水量が増え、水は濁って白波を立てている状況でしたが、浅瀬を探させて、芝田兼義・春日貞幸、佐々木信綱・中山重継・安東忠家らが川を渡り始めました。
これを見た朝廷軍は矢を放ち、芝田兼義と春日貞幸の馬が矢に当たって流され、春日貞幸は水底に沈みますが、心で諏訪明神に祈りながら、腰刀で鎧の帯や小具足を切ってなんとか浅瀬にたどり着いたのだとか。
ただ、貞幸の子や郎党17人が水に流されました。
その後、軍兵の多くが川へ入りますが、流れが急なため、戦う前に流され、関政綱・幸島行時・伊佐為宗・三善康知・長江明義・安保実光をはじめとする96名と、それらに従っていた兵800騎が溺死。
佐々木信綱は、中州から長男の重綱を泰時の陣へと遣わして援軍を求め、泰時の命を受けた子の時氏が六騎を引き連れて川を渡り始めます。
三浦泰村をはじめとする数騎も渡り始めました。
泰時も川を渡ろうとしますが、春日貞幸に「甲冑を身に着けている者は、ほとんど沈んでしまっています。早く鎧を外すように」と言われ、田の畔に下りて鎧を外している間に、乗馬を隠されてしまい、その場に留まったのだとか・・・。
その後、佐々木信綱と北条時氏がほぼ同時に向こう岸に到達。
流されていた芝田兼義も無事に向こう岸に到達。
岸に上がった北条時氏が旗を挙げ、幕府軍と朝廷軍とが合戦を開始しますが、幕府軍は、98人もの負傷者を出しました。
泰時と足利義氏らが筏で渡河すると、武蔵と相模の軍が朝廷軍を攻めます。
朝廷軍は、大将軍の源有雅・源範茂・安達親長などが敗走。
大将軍:藤原朝俊は、八田知尚・佐々木惟綱・小野成時らとともに戦いますが悉く討死。
その他の朝廷軍は戦わずに逃亡しますが、北条時氏が征伐したのだといいます。
※佐々木信綱は、源頼朝に仕えた佐々木定綱の子。
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同日、淀の敵を破った毛利季光・三浦義村は深草河原にいた北条泰時と合流。
北条時房は、瀬田橋で朝廷軍と戦って源(大江)親広・藤原秀康・小野盛綱・三浦胤義を敗走させています。
大江親広は関寺のあたりで行方不明に、佐々木高重は誅殺されたのだといいます。
※大江親広は、鎌倉幕府政所別当の大江広元の子。
※佐々木高重は、源頼朝に仕えた佐々木経高の子。
※三浦胤義は、三浦義村の弟。
「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、宇治橋とともに京都防衛上の重要な橋だでした。
1184年(寿永3年)の木曽義仲追討では、源範頼が瀬田から攻めて、義仲を粟津で滅ぼしています。
鎌倉との繋がりを求めて。
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