別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年5月24日火曜日

北条得宗家の滅亡~最後の得宗・北条時行~


1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めによって、得宗北条高時東勝寺で自刃。

これにより鎌倉幕府は滅亡しますが、高時には嫡男・万寿と次男・亀寿がいました。





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~北条高時の嫡男・邦時~

万寿=北条邦時は、五大院宗繁の妹と高時との間に生まれた子です。

鎌倉幕府の滅亡後、邦時は伯父の宗繁に託されますが、新田軍による北条一族の捜索は厳しく、匿っていた者も次々に誅殺されていきました。

それを見ていた宗繁は、邦時を伊豆山へ向かわせる一方で、邦時を裏切って新田軍に密告します。

伊豆山へ向かっていた邦時は、途中で捕えられ処刑されたのだといいます(享年9歳)。

邦時を裏切った宗繁は非難され逃亡。

最期は誰からも見捨てられ、餓死したのだとか。


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~挙兵した次男・時行~

亀寿=北条時行は、嫡男万寿の異母弟にあたります。

時行は、鎌倉幕府の滅亡後、諏訪盛高(頼重)に連れられ信濃に逃れます。

そして、1335年(建武2年)7月、信濃で挙兵して鎌倉に攻め込みました(中先代の乱)。


護良親王墓


時行が鎌倉を攻めたことにより、成良親王を奉じて鎌倉を守っていた足利直義は敗走します。

その際、直義は東光寺(現鎌倉宮)に幽閉していた護良親王を殺害しています。


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7月25日に鎌倉に入り、一時鎌倉を占領した時行でしたが、8月19日には足利尊氏に攻められ敗走しています。


勝長寿院

時行を担ぎ出したのは諏訪頼重でした。

足利尊氏が鎌倉を奪還すると、時行は鎌倉を逃れますが、頼重は勝長寿院で自刃したと伝えられています。


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足利尊氏が京に室町幕府を開くと、朝廷は南北に分かれます(南北朝時代)。

鎌倉を逃れた時行は、のちに南朝方に属して反幕勢力の一員となっています。

1352年(文和元年・正平7年)、観応の擾乱後、新田義貞の遺児義宗と義興が挙兵すると、時行も挙兵します。

しかし、足利尊氏・基氏父子によって捕らえられ、翌年、龍ノ口で処刑されました。

時行が死んだことによって北条得宗家は完全に滅亡します。





新田義貞の鎌倉攻め

鎌倉幕府滅亡


中先代の乱



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