1180年(治承4年)10月19日、富士川に向かう源頼朝のもとに加賀美長清(小笠原長清)が到着しました。
長清は、高倉天皇の下で滝口武者として活躍した甲斐源氏・加賀美遠光の次男。
母は杉本義宗の娘(和田義盛の娘という説も。)。
妻は上総広常の娘。
※甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜りました。
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『吾妻鏡』によれば、
1180年(治承4年)10月19日、平家軍を迎え撃つため黄瀬川の宿所にいた源頼朝の下に参陣しています。
それまでは平知盛の被官として京にいましたが、母の病気を理由に帰国を許してもらたのだそうです。
8月に京都を出たそうですが途中で病気になり、美濃国で療養し、やっと癒して甲斐国へ戻ると、一族は頼朝の下へ参陣しているとのこと。
これを聞いて直ぐに参じたのだといいます。
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この小笠原長清こそ、のちに源頼朝の弓馬の師範となる武将。
海野幸氏・望月重隆・武田信光とともに弓馬四天王の一人に数えられています。
1193年(建久4年)8月16日の鶴岡八幡宮の流鏑馬では、海野幸氏、望月重隆・武田信光とともに射手を務めています。
鶴岡八幡宮例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法です。
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