別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年12月28日土曜日

多井畑厄除八幡宮~義経も祈願した日本最古の厄除けの霊地~




多井畑厄除八幡宮は、770年(神護景雲4年)の疫病流行の際に疫神祭が行われた地に鎮座。

安元年間(1175-1177)に石清水八幡宮を勧請して創建されました。

光源氏のモデルの一人とされる在原行平や一ノ谷の戦いの英雄源義経が祈願したと伝えられ、日本最古の厄除けの霊地といわれています。

毎年1月18日から20日にかけて厄除祭が行われます。




1184年(寿永3年)2月、平家追討のため一ノ谷へと向かう源義経は、多井畑厄除八幡宮で戦勝を祈願。

その時、休息をとったのが義経腰掛の松なのだとか。





源氏物語 須磨・明石



一ノ谷の戦い









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紫式部


源義経


歴史めぐり源頼朝


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2024年12月17日火曜日

嵐が来るわ!道長の死と武士の台頭。~光る君へ~


大河ドラマ「光る君へ」の最終回では、藤原道長が最期を迎える時、紫式部は道長に「戦のない泰平の世を護られました」と語っていました。

ただ、最後の言葉は「嵐がくるわ」でした。


1027年(万寿4年)12月4日、道長が薨去すると、翌年、東国では平忠常が反乱を起こします(平忠常の乱)。

忠常は高望王流桓武平氏

「光る君へ」に登場した双寿丸が仕えた平為賢と同族。

東国で「新皇」を称して反乱を起こし、940年(天慶3年)に平貞盛と藤原秀郷らに討ち取られた平将門の孫。

将門以来の大規模な反乱となった平忠常の乱は、摂関政治を終わらせるきっかけとなります。

これは、道長の時代に起こった刀伊の入寇での朝廷の無策と、活躍した武者(のちの武士)たちの恩賞が不十分であった事が原因の一つと考えられています。


平忠常の乱を鎮めたのは、経基流清和源氏の一流河内源氏の祖源頼信

頼信は、道長四天王の一人でした。

1051年(永承6年)には、陸奥国で勢力を広げていた安倍頼良と陸奥守・藤原登任の間で戦いが起こりますが、この反乱を鎮めたのは、河内源氏二代棟梁の頼義とその子義家(前九年の役)。

義家は、その後の後三年の役(1183-1087)でも活躍しますが、朝廷は私闘と判断して恩賞を与えなかったたため、義家は従軍した坂東武者たちに私財から恩賞を与えて「武神」と称えられています。

そして、1086年(応徳2年)、白河上皇が院政を開始し、200年以上続いた摂関政治が終わります。

ただ、院政期に特別な扱いを受けたのは、東国の反乱に活躍した河内源氏ではなく、伊勢平氏でした。

伊勢平氏も高望王流桓武平氏

伊勢国を拠点とした一族ですが、地盤を築いたのは道長四天王の一人だった平維衡。

そして、子孫の平清盛が1159年(平治元年)の平治の乱源義朝を倒したことで源氏は没落し、平氏の勢力が拡大されます。

清盛は、後白河院政下で武士としては初めてとなる太政大臣となり、さらに我が国初の武家政権を樹立しました。

それは源頼朝の武家政権へと繋がっていくことになります。


参考までに・・・

頼朝は、平忠常の乱を鎮圧した源頼信から数えて七代目。

平治の乱後、頼朝は処刑される運命にありましたが、それを救ったのが清盛の継母池禅尼でした。

池禅尼刀伊の入寇で活躍した藤原隆家の子孫。

頼朝とともに鎌倉に武家政権を創った北条時政政子義時は、高望王流桓武平氏の平直方の子孫といわれています。

頼朝の源氏再興の挙兵を援けた房総半島の千葉常胤上総広常は、平忠常の子孫でした。




紫式部


源氏物語


藤原道長

藤原彰子









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源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


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2024年12月12日木曜日

紫式部の歌~京都・越前・琵琶湖の歌碑~


★幼い頃からの友に出逢ったときの歌

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに
雲がくれにし 夜半の月かな





嵯峨嵐山歌碑



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★上賀茂神社の片岡社で詠んだ歌。

ほととぎす 声まつほどは 片岡の
森のしづくに 立ちやぬれまし





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★越前に下向する途中で詠んだ歌

三尾の海に 網引く民の てまもなく
立居につけて 都恋しも





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★越前に下向する途中で詠んだ歌

知りぬらむ 行き来にならす 塩津山
世にふる道は からきものとは





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★越前で初雪が降った日に

ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
小塩の松に けふやまがへる






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藤原宣孝の求婚の文に対する返歌

春なれど 白嶺の深雪 いや積り
解くべきほどの いつとなきかな





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★「早く都へ戻りたい」

ふるさとに 帰る山路の それならば
心やゆくと ゆきも見てまし





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★帰京途中に沖島を望んで

おいつしま 守りの神や いますらん
波もさわがぬ わらわえの浦







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彰子に仕えた時に詠んだ歌

身のうさは 心のうちに したひきて
いま九重に 思ひみだるる












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紫式部と越前国


紫式部の越前下向


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2024年11月21日木曜日

都七福神めぐり~2025京都の正月限定のバスツアー~


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京都は七福神発祥の地。

都七福神めぐりは、萬福寺【布袋尊】、東寺【毘沙門天】、六波羅蜜寺【弁財天】、ゑびす神社【ゑびす神】、松ヶ崎大黒天【大黒天】、赤山禅院【福禄寿神】、革堂【寿老神】の7箇所の寺社を巡ります

1月1日から1月31日まで、定期観光バスが毎日運行。

大人12,900円
小児9,800円

9:30 JR京都駅烏丸口集合

9:40 京都駅烏丸口出発

昼食はホテル京阪京都グランデで「新春松花堂弁当 華」

17:15 JR京都駅烏丸口到着

大河ドラマ「光る君へ」ゆかりの寺社も。

予約は、おこしバス(京都定期観光バス)のページで。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~大黒天~


妙円寺は五山の送り火「妙法」で知られる松ヶ崎東山の麓にある寺院。

本尊の大黒天は、伝教大師最澄の作と伝えられ「松ヶ崎大黒天」の名で親しまれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~福禄寿~


赤山禅院は、泰山府君を勧請して開創された寺。

福禄寿は泰山府君の別の姿。

福禄寿のお姿おみくじが人気です。

拝殿の屋根には鬼門除けの猿が置かれています。

いたずらをするので金網の中にいるのだとか・・・。


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~寿老神~


行願寺は、千手観音を本尊とする天台宗の寺院(西国三十三箇所の十九番)。

行願寺の別称は「革堂」(こうどう)。

創建した行円が皮聖(かわひじり)と呼ばれていたことによるのだといいます。

藤原道長の三男顕信は行円のもとで剃髪し、比叡山で出家しています。


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~毘沙門天~


東寺毘沙門堂は、国宝の兜跋毘沙門天像を安置するために建てられた堂(現在は宝物館に安置)。

兜跋毘沙門天像は、平将門の乱の際に都の守護神として羅城門の上層に安置されたものだったといいます。

東寺は平安京の南の玄関口「羅城門」の東に建てられた王城鎮護の官寺(西には西寺がありました。)。


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萬福寺の布袋尊は天王殿に置かれています。

萬福寺は、中国明の僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)によって開かれた黄檗宗の大本山。

2024年(令和6年)、法堂大雄宝殿天王殿が国宝となっています。


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~弁財天~


六波羅蜜寺は、空也によって開かれた西光寺を前身とする寺院。

一条天皇の皇后宮藤原定子の遺体は、六波羅蜜寺に安置された後、鳥戸野陵に葬られました。

平安時代末には平清盛をはじめとする平家一門の邸宅が建ち並んでいたそうです。


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~ゑびす神~


ゑびす神社は、「えべっさん」の名で親しまれ、毎年1月10日の「十日ゑびす大祭」には、商売繁盛を祈願する多くの参詣者で賑わいます。

ゑびす神社は建仁寺の鎮守として栄西によって創建されました。





都七福神


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