『新編相模国風土記稿』によると、「1526年(大永6年)、里見実堯が鎌倉に侵攻し、玉縄城主北条氏時がこれを戸部川(柏尾川)のほとりで防いだ」とされています。
そして、この合戦によって北条側は、甘糟氏をはじめとする35名の戦死者を出しました。
その戦死者が葬られたのが「玉縄首塚」だといわれています。
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勝山城址
(千葉県鋸南町)
戦国時代、里見氏は安房国に勢力を張り、三浦半島に進出していた北条氏と対立していました。
支城の勝山城は里見水軍の拠点となっていました。
写真の手前の浜は、「源頼朝の上陸地」として知られています。
1526年(大永6年)、里見実堯率いる水軍は由比ヶ浜や材木座から上陸して北条氏と戦います。
鎌倉市中で、小田原の北条氏綱との激戦が繰り広げられ、ついには鶴岡八幡宮も炎上します。
『里見代々記』には、これを「不吉なり」として退却したことが書かれているようです。
一説には、里見氏は、源義家を祖とする清和源氏だということです。
📎里見氏の鎌倉来襲
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玉縄首塚では、毎年8月に「墓前祭」が行われます。