別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年12月4日日曜日

鶴岡八幡宮最初の供僧阿闍梨定兼

1180年(治承4年)12月4日、上総国より阿闍梨定兼が鎌倉に到着し、鶴岡八幡宮の供僧職に任ぜられました。

※供僧(ぐそう)とは、社役を務める僧侶のこと。

神主より上の地位にありました。


定兼は、1175年(安元元年)4月26日、何らかの罪によって上総国に流された罪人ですが、仏法の知識があると評判の人物だったといいます。

源頼朝は、当時の鎌倉には、然るべき知識をもった者がいなかったので、上総広常に命じて定兼を呼び出していました。


12月16日には、鶴岡八幡宮(鶴岡若宮)に鳥居が建てられ、最勝王経の講賛が行われ、頼朝も水干を着て名馬に乗って参詣したといいます。

※講賛とは、経文の意味・内容について講釈し、その功徳をたたえること。
※最勝王経とは、護国三部経の一つ(法華経・仁王経)。


 鶴岡八幡宮模型


鶴岡文庫鶴岡八幡宮の模型は、1591年(天正19年)5月14日付けの「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」をもとに作られたものです。

1180年(治承4年)12月16日に建てられた鳥居とは、太鼓橋(赤橋)の奥に建てられた「内の鳥居」だと考えられています。


 二十五坊跡


1191年(建久2年)、頼朝は、「供僧二十五口の制」を定め、鶴岡八幡宮には二十五坊が置かれるようになります。

定兼を供僧職に任じたことがその始まりといわれますが、二十五坊には定兼の名は見られないようです。


 二十五坊跡






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