『吾妻鏡』によれば・・・
1203年(建仁3年)8月27日、二代将軍源頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)に譲ることが発表されます。
これに反発したのは比企能員でした。
頼家の乳母夫であり、一幡の外祖父である能員は、若狭局を通じて頼家に「北条時政を追討すべきだ」と伝えます。
頼家は能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたといいます。
その密議を障子を隔てて聞いていた北条政子は、その事を北条時政に通報します。これを受けた時政は大江広元の支持をとりつけ、先手をうって能員を暗殺したのだといいます。
そして、政子の命によって、頼家の嫡子一幡の小御所が襲われます。立てこもっていた比企一族は滅亡し、一幡も焼け跡から発見されました(9月2日)。
この時、危篤状態だったという頼家は、奇跡的に快復し事件を知ると、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じますが失敗に終わり(9月5日)、病気と政治不安を理由に出家しました(9月7日)。
9月29日、頼家は伊豆国修禅寺へ流され、翌1204年(元久元年)7月19日、その死が鎌倉にもたらされています。
1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられました。
1204年(元久元年)7月18日、伊豆国修禅寺で最期を遂げています。
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しかし、慈円の『愚管抄』によると・・・
能員の暗殺について
「重病になった頼家は、長子一幡に家督を相続させようとしており、それによって能員が幕政の実権を握ろうとしていることを知った時政は、千幡(のちの実朝)こそ後継者だとして能員を呼び寄せ刺し殺した。」
一幡の館の襲撃について
「8月末に出家をし、大江広元邸で療養する頼家を監視させる一方で、一幡の館を襲撃し、立てこもっていた郎等はみな討たれた」
一幡の死について
「一幡は母とともに脱出したが、11月3日、北条氏の追手に捕らえられ刺殺された」
頼家について
「事件を知って驚いた頼家は、太刀を抜いて立ち上がったものの、病みあがりのため、どうすることもできず、母政子にすがりつかれたりして、やがて修禅寺に押し込められ、翌年刺し殺されてしまった」
と伝えています。
『吾妻鏡』が比企氏の策謀としているのに対し、『愚管抄』は北条氏の策謀としています。
事の流れとしては『愚管抄』の方が納得できる内容なのかもしれません。
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1203年(建仁3年)9月15日、鎌倉には実朝を征夷大将軍に任じる宣旨が到着します。
近衛家実の『猪熊関白記』や藤原定家の『明月記』には・・・、
「頼家が9月1日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、朝廷が弟を征夷大将軍に任命し実朝の名を与えた。2日には頼家の子や比企能員が実朝もしくは北条氏によって討たれた」
ということが記されているようです(9月7日)。
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比企能員の末子能本が建てたといわれる寺です。
比企氏の館があった場所で、境内には比企一族の墓や一幡の袖塚があります。
血なまぐさい戦乱があったとは思えない静かな場所です。
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おそらく、北条氏の当初の計画では、
①まず頼家の重病(=死)があって、
②北条氏に反抗する一幡と比企能員を殺害し、
③実朝を将軍に。
という簡単な流れだったはずです。
しかし、実際は、
①頼家の重病
②一幡と比企能員の殺害
③実朝の将軍就任
④頼家の快復
⑤頼家の幽閉
⑥頼家の暗殺
という流れになってしまったのかもしれません。
頼家の奇跡的な病状快復は、北条氏も予想していなかったのでしょう。