『吾妻鏡』によると・・・
1203年(建仁3年)8月27日、病床にあった二代将軍源頼家の容態が悪化したため、以下の譲与が発表されます。
関西38ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)
関東28ヶ国の地頭職と総守護職を長子一幡
この決定に一幡の祖父比企能員が憤慨し、千幡の乳母夫の北条氏を滅ぼそうと考えた・・・
ということのようですが、
慈円の『愚管抄』によると・・・
源頼家は、大江広元の屋敷で倒れ、そのまま広元邸で病の床に就きます。
8月末日には自ら出家して、家督を一幡に譲ることを決めていたのだといいます。
それでは困る北条時政は比企能員を討つことにした・・・
ということのようです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
おそらく・・・
『愚管抄』の記述の方が真実に近いのかもしれません。
だとすると、比企能員は一幡が跡継ぎに決まっているので、焦る必要はありません。
一方の北条時政は、形勢を逆転するために急を要します。
そして、頼家が出家した翌々日には比企能員を暗殺し、比企一族を滅ぼしました。
能員の油断を突いたということなのかもしれません。
近衛家実の『猪熊関白記』や藤原定家の『明月記』には・・・
「朝廷は、将軍頼家が9月1日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、9月7日、弟を征夷大将軍に任命し、実朝の名を与えた」
ということが記されているようです。
この内容からすると、時政・政子・義時は「頼家は死ぬ」と決めつけていたようです。
そうでなければ、時政の行動を政子が許すとは思えません・・・