12月4日、信西の武力後援者である平清盛が熊野詣へと出掛けます。
その機をねらって反信西派が動きます。
12月9日夜半、源義朝、源光保、源頼政らが院御所を包囲し、後白河上皇と上西門院(後白河上皇の同母姉)を内裏に移し、信西の西洞院の邸を焼き討ちしました。
この政変を事前に察知していた信西は、山城国田原に逃れていましたが、13日、田原の山中で自害しています。
政変後、信頼は除目を行い、義朝を従四位下播磨守、その子頼朝を右兵衛佐に任じています。
一方、熊野詣に出掛けていた平清盛が政変を知ったのは、12月10日のこと。
一時、清盛は九州に落ちて兵を集めようと考えますが、熊野別当湛快、紀州の湯浅宗重らの応援を得て帰京し、17日に六波羅邸に入ります。
清盛は、25日夜、後白河上皇を密かに仁和寺に脱出させ、26日には、二条天皇を六波羅邸に脱出させることに成功します。
そして、信頼・義朝の追討宣旨が下され、六条河原の合戦でこれを破り、反信西派を一掃しました。
信頼は処刑。
義朝は東国に逃れようとしますが、翌正月3日、尾張国内海荘で旧臣長田忠致に暗殺されました。
義朝一行とはぐれてしまった頼朝は、2月9日、捕らえられ六波羅に送られました。
捕らえられた頼朝は、平清盛の継母池禅尼の懇請で命を助けられ、3月11日、伊豆国流罪となります。
流されたのは蛭ヶ小島だったと伝えられています。
頼朝の兄・義平と朝長は平治の乱で討死。
頼朝と同じく由良御前を母とする希義は、由良御前の兄(弟?)・藤原範忠に捕えられ、土佐国へ流されました。
常盤御前を母とする今若、乙若は、それぞれ醍醐寺と園城寺で出家、生まれたばかりの牛若は11歳になったときに鞍馬寺に預けられています。
頼朝のもう一人の異母弟・範頼は、養父・藤原範季の保護を受けていたものと考えられています。
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