源義経は、1159年(平治元年)、源義朝の九男として京都で生まれました(参考:源義経をめぐる京都)。
幼名は牛若。
母は絶世の美女といわれる常盤御前。
同母の兄には今若と乙若がいました。
しかし、生まれて間もなく平治の乱が起こり、父義朝が平清盛に敗れてしまいます。
その後、今若は醍醐寺で出家、乙若は園城寺で出家。
幼い牛若は11歳の時に鞍馬寺に預けられました(7歳の時という説も。)。
鞍馬寺では遮那王と呼ばれていました。
しかし、1174年(承安4年)、16歳の時に鞍馬寺を出て奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。
首途八幡宮(かどではちまんぐう)は、奥州へ下る遮那王の手助けしたという金売吉次の屋敷にあった鎮守社だったのだといわれています。
遮那王は、ここで道中の祈願をして旅立ったのだ伝えられています。
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奥州平泉に向かうため京都を旅立った遮那王。
伝説によると・・・九条山で九騎の平家武者とすれ違います。
その時、馬が蹴り上げた泥が遮那王の衣にかかってしまいました。
晴れの門出を汚されて激怒した遮那王は、九名全員を斬り殺してしまったのだといいます。
のちに、九人の菩提を弔うために東海道沿いに九体の石仏を安置のだといいます。
そのうちの一体が義経大日如来。
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源義経の誕生
遮那王は平泉へ向かう途中で自ら元服したのだといわれています。
その場所は『平治物語』では鏡の宿、『義経記』では父義朝の最期の地・尾張国となっているようです。
いずれにしても、元服した遮那王は「源義経」と名乗ります。
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奥州平泉への道のりの詳しい事はわかりませんが・・・
それは容易なものではなかったようです。
のちに義経が書いた「腰越状」には、次のような文面があるようです。
「諸国を流浪し、在所在所に身を隠し、土民百姓らに服していた」(吾妻鏡)。
こうして、苦労して辿り着いた奥州平泉には、1180年(治承4年)に異母兄の源頼朝が挙兵するまで滞在していたようです。
そして、源平合戦後、頼朝と対立した義経は再び奥州平泉へ戻って行きます。
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