伝説によると・・・
源頼朝に仕えていた丹後局。
頼朝の子を身籠ってしまいます。
それを知った北条政子は激怒。
政子に捕えられて殺されそうになった丹後局は、摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだそうです。
社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。
それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。
(厚木市)
こちらの伝説によると・・・
北条政子に丹後局を殺すよう命じられた畠山重忠は、家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出しますが・・・
殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしました。
そこが小野の里。
しかし、それを知った政子が呪いをかけると、丹後局の髪は一晩のうちに白髪になってしまいます。
悲しんだ丹後局は、小町姫に十七日間の祈願をかけたところ、前のような黒髪に戻ったのだとか。
霊験の尊さを知った丹後局が小野の里に建てたのが小町神社だと伝えられています。
島津忠久の「忠」は、畠山重忠の一字を与えられたのだとも・・・。
さらにこちらの伝説によると・・・
懐嶋山の碑は、島津忠久の胎盤が埋められたという場所に建てられています。
「えな塚」(胞衣塚)と呼ばれてきました。
丹後局が身籠ったことを北条政子に知られてしまった頼朝。
比企能員に命じて丹後局を大庭景能邸に預けました。
その後、丹後局は頼朝が建てた桜屋敷に移って男子を出産。
三郎と名付けられたそうです。
7歳になった三郎は1185年(文治元年)6月15日、鶴岡八幡宮で頼朝と対面。
そのとき「忠久」と名乗ったのだとか。
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さて、噂の丹後局とは・・・
丹後局は伊豆の蛭ヶ小島に流された頼朝を支援しつづけた比企尼の娘。
頼朝の側近だった安達盛長の妻です。
そして・・・
島津忠久の本名は惟宗忠久。
丹後局が母であることは事実のようですが、父は惟宗広言あるいは惟宗忠康という説が有力です。
丹後局は惟宗広言と離縁した後、安達盛長に嫁いだそうです。
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