1224年(元文元年)6月13日、鎌倉幕府2代執権・北条義時が亡くなります。
源頼朝墓の東にある山裾の平場は、二代執権・北条義時の法華堂跡と考えられています。
『吾妻鏡』には「故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記されています。
故右大将家とは源頼朝のこと。
北条義時は、源頼朝亡き後の御家人による政権争奪に深く関わり、畠山重忠の乱後は、父時政を鎌倉から追放して二代執権の座に就きます。
将軍源実朝の暗殺では、裏で暗殺者である公暁を操っていたとも考えられています(源実朝の暗殺(源氏の滅亡))。
1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が起こした承久の乱を鎮圧しました。
62歳で急死したという北条義時。
暗殺されたのではないかという説もあるようです。
📎鎌倉幕府二代執権・北条義時は暗殺されたのか?
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2022年の大河は北条義時