okadoのブログ鎌倉情報

2020年6月13日土曜日

鎌倉幕府二代執権・北条義時の法華堂跡




1224年(元文元年)6月13日、鎌倉幕府2代執権・北条義時が亡くなります。

源頼朝墓の東にある山裾の平場は、二代執権・北条義時法華堂跡と考えられています。


『吾妻鏡』には「故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記されています。

故右大将家とは源頼朝のこと。




北条義時は、源頼朝亡き後の御家人による政権争奪に深く関わり、畠山重忠の乱後は、父時政を鎌倉から追放して二代執権の座に就きます。

将軍源実朝の暗殺では、裏で暗殺者である公暁を操っていたとも考えられています(源実朝の暗殺(源氏の滅亡))。

1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が起こした承久の乱を鎮圧しました。


62歳で急死したという北条義時

暗殺されたのではないかという説もあるようです。


📎鎌倉幕府二代執権・北条義時は暗殺されたのか?


 北条義時法華堂跡








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北条氏をめぐる鎌倉

山内荘と北条氏

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 梶原景時の変

 阿野全成の誅殺

 比企能員の暗殺・比企氏滅亡

 畠山重忠の乱

 和田合戦

 源実朝の暗殺

 北条義時と戌神将の伝説

 承久の乱

 北条政子の言葉~承久の乱~


2022年の大河は北条義時
 二代執権北条義時

鎌倉殿の13人~宿老13人の合議制~


 鎌倉手帳


 よりともジャパン.com