源義経は平治の乱の起こった1159年(平治元年)の生まれました。
父は河内源氏の棟梁・源義朝、母は常盤御前。幼名は牛若。
平治の乱で父義朝は平清盛に敗れ、東国へ逃れる途中の尾張国で家臣の裏切りに遭い最期を遂げました(源義朝の墓)。
常盤御前は、生まれたばかりの義経と今若・乙若の三人の子を連れて幼少の頃より信仰していた清水寺に参り、千手観音に三人の子の無事を祈願したのだといいます。
平清盛に命を助けられた義経は、やがて鞍馬寺へ入ります。
五条大橋には義経と弁慶の伝説が残されています。
成長した義経は、1174年(承安4年)、自らの手で元服して「義経」と名乗り、奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。
首途八幡宮は義経が旅立った地といわれています。
1180年(治承4年)、異母兄の源頼朝が挙兵すると、義経は兄のもとへと駆けつけます。
静岡県駿東郡にある八幡神社には、頼朝と義経の対面石が残されています。
そして、1185年(元暦2年)、義経は平家を壇ノ浦に滅ぼしました。
しかし、源平合戦の英雄・義経は兄頼朝と不仲となります。
左女牛井之跡は源氏代々の館跡(六条堀川館)。
頼朝が派遣した土佐坊昌俊が義経を討つために襲撃したのが六条堀川館。
この事件を機に義経は逃亡生活を送ることとなりました。
再び奥州平泉の藤原秀衡を頼りますが・・・
秀衡が亡くなると、頼朝に圧力をかけられた泰衡に攻められ、衣川館で最期を遂げました。
(鞍馬寺)
奥州平泉で死んだ義経の霊は幼少期を過ごした鞍馬に戻ったのだといいます。