1180年(治承4年)12月28日、平重衡は東大寺・興福寺を焼き払いました(南都焼討)。
焼討によって焼けた東大寺を再興したのは大勧進となった俊乗房重源。
後白河法皇や源頼朝の助力を得て、1185年(元暦2年)には大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)には頼朝も参列して大仏殿の落慶供養が行われました。
1203年(建仁3年)には、再建された南大門に運慶らによって金剛力士像が造立され総供養が行われています。
重源は東塔の再建も志しますが1206年(建永元年)に亡くなります(参考:重源の勧進状)。
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重源没後に大勧進になったのは栄西。
国宝梵鐘が吊されている鐘楼は、栄西による再建だといいます。
しかし、栄西は1208年(承元2年)に焼失した法勝寺の九重塔の再建にかかりきりで、朝廷の助力もそちらに傾けられ、栄西が大勧進になったことは東大寺に苦境をもたらしたともいわれています。
※法勝寺は白河法皇が建てた寺で、皇室の厚い保護を受けていた。
東大寺には「栄西唐墨筆献上状」が残されています。
大仏殿前に植えられている菩提樹は、1195年(建久6年)に栄西が宋より持ち帰ったものを移植したのだといいます。
第三代の大勧進となったのは栄西の弟子の行勇。
北条政子や北条泰時などの信頼が厚かった行勇は、幕府の援助もあって重源が固執した東塔の再建を果たしています(1227年(安貞元年)。
東塔は「仏舎利」を納める塔。
重源の釈尊への尊崇の念は、東大寺に残されている「勧進状」に表されています。
東大寺には、鎮守八幡宮社壇移転について書かれた行勇の自筆書状が残されています。
南都焼討からの東大寺の復興は、重源・栄西・行勇の三代の任期中にその旧態を取り戻すまでに至りました。
以後も歴代の大勧進職の手で造営・修理が続けられていきました。
行勇の弟子で東福寺開山の円爾(えんに)や極楽寺開山の忍性、宝戒寺開山の円観も大勧進職に任じられています。
南都焼討からの東大寺の復興は、重源・栄西・行勇の三代の任期中にその旧態を取り戻すまでに至りました。
以後も歴代の大勧進職の手で造営・修理が続けられていきました。
行勇の弟子で東福寺開山の円爾(えんに)や極楽寺開山の忍性、宝戒寺開山の円観も大勧進職に任じられています。
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鎌倉との繋がりを求めて。
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