『吾妻鏡』によると、鎌倉権五郎景政は、1117年(永久5年)10月23日、自らの領地である相摸国大庭御厨を伊勢神宮の寄進しています。
景政が開発した大庭御厨は、現在の藤沢市から茅ヶ崎市にいたる広大な荘園。
八幡太郎義家と景政
(腰越天王祭の人形山車の人形)
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~寄進地系荘園~
当時の地方の国は、受領国司と呼ばれる年貢徴収などの強大な権限を持った役人が支配し、私腹を肥やすという時代でした。
もちろん、新たに開発された農地にも税金がかけられます。
景政が行った伊勢神宮への寄進は、租税免除を目的とするもの。
受領国司の横暴から逃れることも目的としています。
当時、景政のような開発領主は、有力な貴族や寺社に農地を寄進することで、それまで国司に納めていた官物・雑役を年貢・公事の名目で貴族や寺社に納めることで国司の圧迫を逃れようとしていました。
「寄進した」というと「あげてしまった」という感じもしますがそうではありません。
貴族や寺社は寄進を受けたといっても、その農地を支配するのではなく、経営は開発領主に任せられていました。
つまり、開発領主が利益を得るために名目的に寄進するということのようです。
のちに大庭御厨を領した大庭氏は景政の孫景忠が祖といいます。
そして、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に敵対した大庭景親は、景忠の子といわれていますが、これらの系図には諸説あって定かではありません。
鎌倉坂ノ下の御霊神社は、鎌倉権五郎景政を祭神としています。
鎌倉権五郎景政の命日にあたる9月18日に例祭が行われ、神奈川県の無形民俗文化財となっている面掛行列を見ることができます。
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