(※内管領とは、北条得宗家の執事のことで、幕府の職ではありません。)
この事件によって、安達泰盛が滅び、北条得宗家に対抗できる有力御家人は潰滅しました。
以後、北条得宗家被官による政治が行われることとなります。
甘縄神明神社 安達氏の館は、甘縄にあったと伝えられています。 |
~霜月騒動~
1284年(弘安7年)4月4日、八代執権北条時宗が死ぬと、3ヶ月の空位期間をおいて、7月7日に幼い貞時が執権となります。
安達泰盛は貞時の外祖父。得宗専制の体制が強化されていく中で、得宗体制を抑制する改革を行います。
一方、北条得宗家の身内人として時宗の代から仕え、貞時の乳母夫を務めた平頼綱は、内管領という要職にありました。
時宗の死後、政治的背景を異にするこの二人が対立し、徐々に深刻化していきます。
そして、1285年(弘安8年)11月17日、ついに武力衝突に至ります。
頼綱は、まだ幼い貞時に、
「泰盛の子宗景は、父祖の景盛が右大将家(源頼朝)の子であったとして「源氏」を称しています。
これは自分が将軍になるためかと思われます」
とたきつけ、一挙に泰盛とその一族の討伐にふみきったのだといいます。
激戦は鎌倉の各所で起こり、泰盛と嫡子宗景が討たれ、上野・武蔵一帯の有力御家人500余人も討たれています。
泰盛の婿だった金沢顕時も逮捕され、上総の埴生荘に幽閉されました。
各所での激戦は、ほぼ同時に行われていると思われ、頼綱による計画的な攻撃だったと考えられています。
霜月騒動は地方にも広がり、肥後守護として九州にいた安達盛宗(泰盛の子)が博多で討たれ、少弐景資が筑前の岩門城で討たれています。
二人ともに蒙古との戦いでは、九州御家人の指揮官として働いた人物でした。
蒙古襲来絵巻安達泰盛と恩賞を求めて鎌倉に来た竹崎季長。 |
~御家人安達氏~
安達氏は、源頼朝以来の御家人で、家祖の盛長は、頼朝の乳母比企尼の娘婿で、伊豆国の時代から頼朝を支えました。
盛長の後は、景盛、義景、泰盛と続きます。
景盛の娘松下禅尼は五代執権北条時頼の母。
泰盛の妹堀内殿は、八代執権北条時宗の妻となり九代執権北条貞時を生みます。
安達氏と北条得宗家とは、かなり深い縁戚関係で結ばれていました。
~霜月騒動後の安達一族~
霜月騒動によって安達一族のほとんどが滅ぼされますが、安達泰宗の娘は貞時に嫁いで十四代執権北条高時を生みます。
高時の後見役を務めた安達時顕は、娘を高時に嫁がせ外戚となっています。