別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年11月17日木曜日

安達泰盛と平頼綱の対立~霜月騒動~

1285年(弘安8年)11月17日、有力御家人安達泰盛と内管領平頼綱が対立し、鎌倉市中で激戦が繰り広げられました(霜月騒動)。

(※内管領とは、北条得宗家の執事のことで、幕府の職ではありません。)

この事件によって、安達泰盛が滅び、北条得宗家に対抗できる有力御家人は潰滅しました。

以後、北条得宗家被官による政治が行われることとなります。


甘縄神明神社
安達氏の館は、甘縄にあったと伝えられています。


~霜月騒動~

1284年(弘安7年)4月4日、八代執権北条時宗が死ぬと、3ヶ月の空位期間をおいて、7月7日に幼い貞時が執権となります。

安達泰盛貞時の外祖父。得宗専制の体制が強化されていく中で、得宗体制を抑制する改革を行います。

一方、北条得宗家の身内人として時宗の代から仕え、貞時の乳母夫を務めた平頼綱は、内管領という要職にありました。

時宗の死後、政治的背景を異にするこの二人が対立し、徐々に深刻化していきます。


そして、1285年(弘安8年)11月17日、ついに武力衝突に至ります。

頼綱は、まだ幼い貞時に、

泰盛の子宗景は、父祖の景盛が右大将家(源頼朝)の子であったとして「源氏」を称しています。

これは自分が将軍になるためかと思われます」

とたきつけ、一挙に泰盛とその一族の討伐にふみきったのだといいます。


激戦は鎌倉の各所で起こり、泰盛と嫡子宗景が討たれ、上野・武蔵一帯の有力御家人500余人も討たれています。

泰盛の婿だった金沢顕時も逮捕され、上総の埴生荘に幽閉されました。

各所での激戦は、ほぼ同時に行われていると思われ、頼綱による計画的な攻撃だったと考えられています。


霜月騒動は地方にも広がり、肥後守護として九州にいた安達盛宗(泰盛の子)が博多で討たれ、少弐景資が筑前の岩門城で討たれています。

二人ともに蒙古との戦いでは、九州御家人の指揮官として働いた人物でした。


蒙古襲来絵巻安達泰盛と恩賞を求めて鎌倉に来た竹崎季長。


~御家人安達氏~

安達氏は、源頼朝以来の御家人で、家祖の盛長は、頼朝の乳母比企尼の娘婿で、伊豆国の時代から頼朝を支えました。

盛長の後は、景盛、義景、泰盛と続きます。

景盛の娘松下禅尼は五代執権北条時頼の母。

泰盛の妹堀内殿は、八代執権北条時宗の妻となり九代執権北条貞時を生みます。

安達氏北条得宗家とは、かなり深い縁戚関係で結ばれていました。


~霜月騒動後の安達一族~

霜月騒動によって安達一族のほとんどが滅ぼされますが、安達泰宗の娘は貞時に嫁いで十四代執権北条高時を生みます。

高時の後見役を務めた安達時顕は、娘を高時に嫁がせ外戚となっています。





甘縄神明神社


八代執権北条時宗


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