仁田忠常は、伊豆国仁田郷の住人で、源頼朝の石橋山の戦いに従った武将の一人です(参考:源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・(石橋山)~)。
以後、頼朝の信任は厚く側近として従い、源平合戦や奥州征伐で武功をあげています。
~貞女の鏡・・・忠常の妻~
1187年(文治3年)正月18日、仁田忠常は瀕死の重病に陥ります。頼朝も見舞いに訪れました。
このとき、忠常の妻は、
「妻の命を縮め、忠常を救い給え・・・」
と三嶋大社に祈願したといいます。
それから半年後の7月18日、
忠常の妻は、三嶋大社へ参詣に出掛けますが洪水になってしまいます。
そのため、江尻の渡しの船に乗ったところ、船が転覆してしまいました。
乗船客は皆水中に放り出されますが、
奇跡的に助かります。
ただ、忠常の妻だけが水底に沈んだままとなってしまいました。
正月に忠常が重病に陥ったときの
「妻の命を縮め、忠常を救い給え・・・」
という願いが神に受け入れられたのだといいます。
~曾我十郎祐成を討った忠常~
(曾我兄弟の仇討ち)
1193年(建久4年)、源頼朝は富士裾野で巻狩りを催します。その間の5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こります。
曾我十郎祐成と五郎時致の兄弟が、父の仇である工藤祐経を討った事件ですが、このとき十郎祐成を討ち取ったのは、仁田忠常でした。
(参考:曾我兄弟の仇討ち・・・)
仁田忠常古猪討図
~比企能員の暗殺~
1203年(建仁3年)9月2日、北条時政は自邸に比企能員を誘き出し暗殺します(比企氏の乱)。
暗殺を実行したのは、時政の命を受けた仁田忠常と天野蓮景(遠景)でした。
二人は、能員の左右の手をつかみ、山裾の竹藪の中に能員を引きずり込み、殺害したといいます。
~忠常の最期~
比企能員暗殺から3日後の9月6日、北条時政は、比企能員追討の褒美を与えるため、仁田忠常を名越邸に呼び寄せます。
しかし、忠常は暗くなっても名越邸から出てきません。
これをおかしいと思った忠常の護衛の男は、忠常の馬を引き連れて帰宅し、このことを忠常の弟五郎と六郎に報告しました。
五郎と六郎はこう考えました。
「ひょっとして、将軍から時政を討つよう命じられていたことがばれてしまい、殺されてしまったのではないか・・・」と。
そして、五郎と六郎は、その復讐のため、北条義時を襲います(そのとき義時は北条政子邸(御所)にいたそうです。)。
しかし、五郎は波多野忠綱に討たれ、六郎は台所に火を放ち自殺します。
一方、忠常は名越邸を出て、帰宅する途中にこのことを知ったといいます。
弟たちの行動で謀叛を疑われた忠常は、御所へ向かう途中、加藤景廉に誅されたそうです。
以上は、『吾妻鏡』の記事からの事件の流れですが・・・
この前日、和田義盛と忠常は、将軍源頼家から「北条時政を征伐せよ」という命令を受けています。
しかし、義盛は、使者の堀親家が持ってきた頼家の文書を時政に渡したといいます。
(その後、堀親家は、工藤行光によって殺されました。)
一方、忠常が頼家の命令を受けてどうしたのかは書かれていないようです。
9月6日の仁田忠常の誅殺の記事は、その続きの物語なのでしょう。
だとすると、この忠常誅殺の経過記事は、『吾妻鏡』お得意の作り物語かもしれません。
忠常は、いろんな秘密を知っていたと思われますし・・・。
~富士の人穴を探索したという忠常~
比企氏の乱の起こる3ヶ月前、仁田忠常は源頼家に従って富士の狩り場へ行っています。その時、頼家に命じられて「富士の人穴」を探索したといいます。
富士の人穴は、富士山の守神である浅間大菩薩がお住まいの穴と伝えられているそうで・・・。
もしかすると・・・この探索が原因で、頼家ともども「不幸の道」を歩くことになったのかもしれません。
(参考:源頼家・・・仁田忠常に富士の人穴を探索させる!)
(田方郡函南町)
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