梶原氏は、大庭氏と同じく鎌倉権五郎景政を祖としていると伝えられ、梶原景時と大庭景親は従兄弟ではないかともいわれています(参考:御霊神社(坂ノ下))。
(鎌倉:梶原)
鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の鎮守。
「梶原」という地は、梶原景時に縁のある所といわれ、御霊神社には景時の像も安置されていたといいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1180年(治承4年)、源頼朝は、石橋山の戦いで惨敗し、土肥の椙山に身を隠します。
大庭景親は、頼朝を追跡しますが、追跡軍の中には梶原景時もいたといいます。
『吾妻鏡』によれば・・・
景時は、頼朝の所在を知りながら「この山には人はいない」といって、景親の手を引いて去っていったといいます。
また、別の物語では・・・
大木の洞窟に隠れていた頼朝を発見しながら、「ここには誰もいない。蜘蛛の巣ばかりだ」といって「弓の先についた蜘蛛の巣を見せた」とも伝えられています。
(頼朝が隠れ潜んだという岩窟)
いずれにしても、景時が頼朝の信頼を得たのは、「椙山で頼朝を助けた」ことが大きく影響しているということなのでしょうか???
石橋山の戦い後、景時が何処で何をしていたのかはわかりませんが・・・
『吾妻鏡』によると・・・
景時は、この年の12月に土肥実平を頼り、翌年正月11日には、頼朝に面会して気に入られたといいます。
つまり、この時から頼朝の御家人となったということです。
のちに、侍所の所司(次官)にも任命されています。
鎌倉での景時の館は、十二所にあったといいます。
(寒川町)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵
源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃
源頼朝挙兵の日
源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・~
三浦一族の進発~石橋山の戦い~
源頼朝の敗戦~石橋山の戦い~
源頼朝を助けた武将たち~石橋山の戦い~
源頼朝・・・真鶴から安房へ
先陣を切って討死した佐奈田与一義忠~石橋山の戦い~
石橋山の戦いと衣笠合戦~三浦義明の討死~
渋谷重国と佐々木四兄弟~石橋山の戦い~
明暗が分かれた大庭兄弟(景親と景義)~石橋山の戦い~
梶原景時と石橋山の戦い
母の哀訴に命を救われた山内首藤経俊
法華経を読み続けた長尾定景~石橋山の戦い~
源頼朝大軍を率いて鎌倉入り
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(小田原市)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆