別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年9月1日木曜日

法華経を読み続けた長尾定景~石橋山の戦い~

長尾氏は、鎌倉権五郎景政を祖とする一族(参考:御霊神社(坂ノ下))。

景弘のときに相模国鎌倉郡長尾庄に住み、「長尾氏」を名乗ったといわれています。


御霊神社


長尾城址(戸塚区長尾台)に祀られている御霊神社。

長尾城は景弘の築城と伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


長尾氏は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には平家方についていました。

8月23日の石橋山の戦いでは、長尾景弘の子定景が佐奈田与一義忠を討ち取るという活躍をしています。

石橋山の戦いは、頼朝の大敗に終わりますが、周知のとおり、すぐに形勢は逆転し、10月23日、長尾定景は、大庭景親らとともに頼朝に降伏しています。

大庭景親は、上総介広常に預けられた後すぐに処刑されましたが、

長尾定景は、佐奈田与一義忠の父岡崎義実に預けられたままでした。

頼朝は、定景の処分についてその権限を義実に与えたのでした。

しかし、義実は慈悲深い者であったので、定景を殺すことができず、ただ囚人として預かっている日々を送っていました。

定景は、囚人となって以来、毎日法華経の転読を怠らなかったといいます。


1181年(治承5年)7月5日、

義実は、「嫁のお告げがあった」として頼朝を訪ねます。

義実が申すには、

「定景は息子の敵ですので、殺さなければ気がすまない思いでしたが、毎日、法華経を読んでいる声を聞くうちに、怨念も消えてゆきました。

もし、信仰の厚い定景を誅すれば、かえって義忠の冥土での支障になりかねませんので、許してやりたいと思います。」

ということでした。

法華経を信仰していた頼朝は、これに賛成して定景の命を助けることにしたといいます。




命を救われた定景は、その後は三浦氏の家臣として仕えていたようです。

1219年(承久元年)に起こった源実朝の暗殺事件では、実朝を暗殺した公暁を討ち取っています。


長尾定景一族の墓
(久成寺)


鎌倉の久成寺には、長尾定景一族の墓があります。

長尾城址から移されたもののようですが、石碑には「上杉謙信公祖」と刻まれています。

のちの戦国大名上杉謙信は、長尾定景の子孫と伝えられています。

※長尾城は、1247年(宝治元年)の宝治合戦の折、落城しています。


長尾城址


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