別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2011年1月10日月曜日

北条貞時十三回忌供養~円覚寺~


1323年(元亨3年)、円覚寺では、九代執権北条貞時十三回忌の供養が行われました。

その際に新たに建立された法堂の落慶供養も行われています(建長寺には華厳塔が建立されました。)。




かつては、仏殿背後に法堂がありました。

裳階付の法堂で仏殿の後方に建てられたことが『供養記』に記されています。

大工は新大夫安能。

裳階というのは、屋根の下にもう一重の屋根を付ける建築方法。

奈良薬師寺の三重塔が知られています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~貞時供養に参列した御家人~


『供養記』には、北条一門や足利貞氏をはじめとする182人の御家人から、砂金2560両、太刀104腰、銭4450貫、馬90疋などが寄せられたことが記されています。

足利貞氏足利尊氏の父。


集まった御家人の人数と寄せられた品々で北条得宗家の権勢と円覚寺の繁栄をうかがい知ることができます。

そして、足利貞氏が鎌倉幕府の中でかなりの地位にいたこともわかります。

この北条貞時供養から10年後の1333年(元弘3年)に、鎌倉幕府は、貞氏の子尊氏らによって滅ぼされました(鎌倉幕府の滅亡)。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~法堂落慶供養に参集した禅僧~


そして、建立された法堂の供養には、鎌倉とその近傍の禅宗寺院38寺から2030人の禅僧が参集したということです。

建長寺388人
円覚寺350人
壽福寺260人
浄智寺224人

その他、禅興寺92人、大慶寺83人、万寿寺75人などと続きます。


この人数が当時の寺の規模を表しているといってよく、「五山」といわれた寺院が上位をしめています。

第五位だったという浄妙寺は、もとは密教寺院だったものを禅宗に改め、足利貞氏の時代に再興されていますので、まだこの時には、五山の中に入る規模ではありませんでした。

浄妙寺が五山に列するのは1358年(延文3年)のことになります。




=鎌倉五山=

鎌倉の禅寺は、1253年(建長5年)に本格的禅宗寺院としての建長寺が創建され、1282年(弘安5年)に円覚寺が、翌年に浄智寺が創建されたことにより、すでに1200年(正治2年)に創建されていた壽福寺を含めた鎌倉の四大寺が出来上がりました。

鎌倉幕府は、これに京都の建仁寺(1202年(建仁2年)源頼家創建)を加えた五大寺院の運営を行っていたものと考えられています。

「五山」という名称がいつから使われたのかは不明ですが、

1299年(正安元年)に北条貞時の命によって浄智寺が五山に列せられていることから、この辺りの時代から使われていたものと考えられています。

北条貞時十三回忌の供養の際の「諸山布施」として、筆頭に円覚寺建長寺壽福寺建仁寺浄智寺の五寺があげられています



壽福寺

建仁寺

建長寺

円覚寺

浄智寺







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉五山

鎌倉三名鐘


洪鐘祭


円覚寺の洪鐘



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2011年1月9日日曜日

初春の円覚寺塔頭龍隠庵

龍隠庵は、円覚寺の塔頭で本尊は聖観音です。選仏場居士林の間を入った高台にあります。

円覚寺山門(三門)仏殿が見渡せる素晴らしい景色が迎えてくれます。



聖観音像


本日は、甘酒をご馳走になってしまいました。


日当たり良好の場所ですので、
すでに梅がかなり咲き始めています。

精進料理に使うための切り干しでしょうか・・・?

龍隠庵から眺める円覚寺の景色は最高です。


円覚寺塔頭龍隠庵
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浄光明寺のスイセン

浄光明寺の不動堂前のスイセンが見頃です。
2011/01/09








鎌倉手帳
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円覚寺のスイセン

鎌倉のスイセンは、早咲きのものは、年末頃から咲き始めています。
瑞泉寺のスイセンが知られていますが、円覚寺浄光明寺などでも楽しむことができます。


法堂跡(仏殿裏)


黄梅院


居士林
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龍隠庵


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鎌倉最大最古の庚申塔~八雲神社:山ノ内~

山ノ内の八雲神社の裏には、11基の庚申塔群があります。

その中の舟型の庚申塔は鎌倉最古で最大の庚申塔とされています。

八雲神裏の庚申塔群

鎌倉で最大最古の庚申塔
上の写真の左から3番目の舟型の庚申塔が、
寛文5年(1665年)銘のある鎌倉最古の庚申塔です。
塔身も136㎝で鎌倉最大といわれています。

三猿の浮彫りがあります。
庚申塔に猿が彫られる理由には諸説あるようです。
庚申塔の「申(サル)」の字からすると当然のような気もしますが、
そんな簡単なものではないのでしょうね。
「見ざる 聞かざる 言わざる」が彫られるのは、
「三尸に告げられないように」という願いがあるといいます。


~庚申の日~

古くからの言い伝えでは、人間の体の中には3種類の悪い虫が棲んでいて、庚申の日に、寝ている間にその者の悪事を天帝に報告に行くそうです。

ならば・・・ということで、「庚申の日の夜は眠らない」という風習が平安貴族の間で広まります。それが「夜通し酒宴を行う」という風習に変化して庶民にも広まったそうです。

どうも日本人は、最終的には宴会に繋げるのが得意のようで・・・。



この庚申塔も八雲神社裏のものですが、

猿が塔の上に彫られています。

これを「頂猿型」の庚申塔というそうです。


なんとなく口を押さえているように見えます。

「言わざる」をイメージしたものでしょうか・・・。


 八雲神社


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鶴岡八幡宮の若宮

1180年(治承4年)、鎌倉入りを果たした源頼朝は、由比郷の鶴岡若宮(現在の元八幡)を小林郷北山(現在地)に遷座します。

このときの社殿はごく簡単な造りだったと思われますが、翌年には本格的な社殿の造営に着手します。


現在の若宮

1181年(養和元年)7月3日、頼朝は、鎌倉には技術を持った工匠がいないため、武蔵国浅草の大工(字郷司)を呼ぶよう命令を下しています。

7月8日、御神体を仮殿に移すための儀式が大庭景義の担当によって行われ、大庭御厨の神館の巫女が召し出され奉仕したといいます。

そして、召し出された浅草の大工によって工事が始まりました。

7月20日には、上棟式を迎えています。

頼朝が社頭の東側の仮屋に着座すると、その南北に御家人が着座したといいます。


1181年(養和元年)8月15日、
梶原景時の奉行によって、
新しい社殿に御神体が納められました。


1182年(養和2年)、若宮参詣のための参道(若宮大路段葛)が整備され、源平池の造営も行われました。

1186年(文治2年)4月8日には、義経の愛妾静御前が若宮の回廊で舞を披露したことは有名な話です(参考:静の舞)。

また、同じ年の8月15日、奥州への東大寺勧進の旅の途中で鎌倉に立ち寄った西行と頼朝が出会ったのが若宮の前であったといわれています。

(参考:奥州を旅した西行と鎌倉


鶴岡八幡宮例祭で奉納されている流鏑馬は、このときの西行から受けた教えをもとに、翌年から開催されたものと伝えられています。

(参考:鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬




1191年(建久2年)3月4日の火災で鶴岡八幡宮は悉く焼失してしまいます。

(参考:建久2年の鎌倉大火・・・鶴岡八幡宮が灰燼と化す


しかし、すぐに再建の工事が行われ、町からの火災による被害を少しでも防ぐため、大臣山の中腹に社を建立して上宮(本宮)としました。

同時に下宮(若宮)も再建され現在のような上下両宮の形となっています(参考:鶴岡八幡宮の上宮 御鎮座記念祭)。


ビャクシン
三代将軍源実朝が宋より取り寄せたと伝えられている古木です。
鎌倉市の天然記念物に指定されています。


~現在の社殿と荏柄天神社の本殿~

現在の社殿は、1624年(寛永元年)、徳川二代将軍秀忠によって建て替えられたものです。

それまでの社殿は、荏柄天神社に移築され本殿として使用されています。

この建物は、1316年(正和5年)の建造物だと伝えられ、鎌倉に残されている唯一の鎌倉時代の建造物であり、鎌倉最古の建造物として国の重要文化財に指定されています。



鶴岡八幡宮
https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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2011年1月8日土曜日

中世武家政権と江の島

江の島


江島神社は、欽明天皇の勅命で岩屋に宮を建てたのがはじまりとされ、その後は、神仏習合の与願寺として信仰を集めてきました。

鎌倉に武家の政権が発足すると、江の島もその影響を受けるようになります。


天女と五頭龍

『江の島縁起』では、552年(欽明13年)、天女出現ともに忽然と現れた島が「江の島」であると伝えています。



江島神社龍口明神社に置かれている絵本です。

江の島の天女(弁財天)と五頭龍の伝説がわかりやすく描かれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~源頼朝の参詣と北条氏の家紋~

『吾妻鏡』は、1182年(寿永元年)4月5日、源頼朝が47名の御家人とともに江の島岩屋に参詣し、文覚に命じて弁財天を勧請したと伝えています。

これは、奥州平泉の藤原秀衡の調伏を祈願したもので、この行事がきっかけとなって、鎌倉時代には将軍家や北条執権家が江の島を訪れるようになったといいます。




『太平記』には、北条時政が、1190年(建久元年)に江の島に参籠して子孫の繁栄を祈願した際に、天女(龍神)が現れて子孫繁栄を約束し、

そのときに残されていた3枚の鱗から、北条氏の家紋である「三つ鱗」(ミツウロコ)が誕生したという説話が載せられています。


江の島岩屋
岩屋から見える海

江島神社
江島神社の神紋の三つ鱗


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~源実朝の命による辺津宮の創建~

辺津宮は、1206年(建永元年)、三代将軍源実朝の命を受けた鶴岡八幡宮の供僧良真によって建立されたと伝えられています。

かつては、良真の木像が安置されていましたが、現在は聖天島の社に安置されています。

瑞心門横の蟇石には良真の伝説が残されています。


聖天島


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~陸続きになった江の島~

『吾妻鏡』では、1216年(建保4年)、江の島と片瀬が陸続きとなって船を使わずに渡れるようになったことが記されています。


江の島トンボロ


江の島は片瀬の浜と砂州で結ばれている陸繋島(りくけいとう)です。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~室町時代の江の島~

=鎌倉幕府の滅亡=

1333年(元弘3年)、新田義貞が鎌倉を攻め鎌倉幕府を滅ぼすと、政治の中心は再び京都に移ります。

そして、足利尊氏は京都の室町に幕府を開きますが、鎌倉はなおも重要な地として、室町幕府の出先機関としての「鎌倉府」が置かれました。

江の島も鎌倉府によって保護されていました。


=永享の乱=

1438年(永享10年)、鎌倉府の四代長官(鎌倉公方)の足利持氏は、京都の六代将軍足利義教に対して反乱を起こしますが、持氏は敗れて翌年、鎌倉二階堂の永安寺で自刃しました(永享の乱)。

永享の乱後しばらく鎌倉公方が不在となりますが、1449年(宝徳元年)、持氏の子成氏が擁立されます。


=江の島合戦・上杉憲忠暗殺・享徳の乱=

しかし、成氏は山内上杉家宰の長尾景仲と扇谷上杉家宰の太田資清に襲撃され江の島に避難します(江の島合戦)。

一旦は和睦が成立し成氏は鎌倉に戻りますが、1454年(享徳3年)、成氏は関東管領の上杉憲忠を謀殺します。

これが鎌倉を長い戦乱の中に巻き込む享徳の乱のきっかけとなりました。

翌年、成氏は江の島岩本坊の間宮氏に鎌倉警護の勲功を感謝する書状を送り、ますます忠勤に励むよう促しています。

岩本坊は江の島本宮の別当で江嶋寺とも呼ばれていました。現在の岩本楼です。

足利成氏の感謝状をはじめ、古河公方家や小田原北条氏(後北条氏)からの書状が多く残されているそうです。


岩本楼


=足利成氏が鎌倉を離れる=

1455年(康正元年)、室町幕府の命を受けた今川範忠が鎌倉に攻め入ると、成氏は古河に逃れ「古河公方」と呼ばれるようになります。

これによって、源頼朝の鎌倉幕府創設以来、武家政権の中心として繁栄した鎌倉が衰退していくことになります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~戦国時代の江の島~

古河公方最後の足利義氏の頃の江の島は、すでに小田原北条氏の支配下にありました。

1504年(永正元年)、伊豆の韮山城から武蔵国に出陣した北条早雲は、江の島で乱暴狼藉をしないよう禁制を出しています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

江の島

江ノ電で鎌倉





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