平重衡は、平清盛の五男。
1180年(治承4年)12月12日、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発した以仁王を匿った園城寺を焼き払い、12月28日には、東大寺・興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都を焼討ちしたことで知られる武将。
1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いで捕らえられ、一時、鎌倉の源頼朝のもとにいましたが、1185年(元暦2年)、平家が壇ノ浦で滅亡すると南都衆徒に引き渡されて、6月23日、木津川で斬首されました。
京都の日野にある平重衡の墓は、妻の藤原輔子が築いたもの。
木津川で斬首された重衡の首は奈良の般若寺に晒されましたが、輔子は東大寺再興の大勧進だった重源に請うて首をもらい受け、捨てられていた胴体とともに日野の法界寺で荼毘に付し、灰塚を築いて、骨は高野山に納めたのだと伝えられています。
重衡の供養の後、輔子は大原の寂光院に隠棲していた建礼門院に仕えて余生を過ごしたのだといいます。
建礼門院は重衡の姉。
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鎌倉の教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、源頼朝が「一族の冥福を祈るように」と重衡に与えたものだと伝えられています。
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