1323年(元亨3年)、円覚寺では、九代執権北条貞時の十三回忌の供養が行われました。
その際に新たに建立された法堂の落慶供養も行われています(建長寺には華厳塔が建立されました。)。
かつては、仏殿背後に法堂がありました。
裳階付の法堂で仏殿の後方に建てられたことが『供養記』に記されています。
大工は新大夫安能。
裳階というのは、屋根の下にもう一重の屋根を付ける建築方法。
奈良薬師寺の三重塔が知られています。
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~貞時供養に参列した御家人~
『供養記』には、北条一門や足利貞氏をはじめとする182人の御家人から、砂金2560両、太刀104腰、銭4450貫、馬90疋などが寄せられたことが記されています。
※足利貞氏は足利尊氏の父。
集まった御家人の人数と寄せられた品々で北条得宗家の権勢と円覚寺の繁栄をうかがい知ることができます。
そして、足利貞氏が鎌倉幕府の中でかなりの地位にいたこともわかります。
この北条貞時供養から10年後の1333年(元弘3年)に、鎌倉幕府は、貞氏の子尊氏らによって滅ぼされました(鎌倉幕府の滅亡)。
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~法堂落慶供養に参集した禅僧~
そして、建立された法堂の供養には、鎌倉とその近傍の禅宗寺院38寺から2030人の禅僧が参集したということです。
建長寺388人
円覚寺350人
壽福寺260人
浄智寺224人
その他、禅興寺92人、大慶寺83人、万寿寺75人などと続きます。
この人数が当時の寺の規模を表しているといってよく、「五山」といわれた寺院が上位をしめています。
第五位だったという浄妙寺は、もとは密教寺院だったものを禅宗に改め、足利貞氏の時代に再興されていますので、まだこの時には、五山の中に入る規模ではありませんでした。
浄妙寺が五山に列するのは1358年(延文3年)のことになります。
=鎌倉五山=
鎌倉の禅寺は、1253年(建長5年)に本格的禅宗寺院としての建長寺が創建され、1282年(弘安5年)に円覚寺が、翌年に浄智寺が創建されたことにより、すでに1200年(正治2年)に創建されていた壽福寺を含めた鎌倉の四大寺が出来上がりました。
鎌倉幕府は、これに京都の建仁寺(1202年(建仁2年)源頼家創建)を加えた五大寺院の運営を行っていたものと考えられています。
「五山」という名称がいつから使われたのかは不明ですが、
1299年(正安元年)に北条貞時の命によって浄智寺が五山に列せられていることから、この辺りの時代から使われていたものと考えられています。
北条貞時の十三回忌の供養の際の「諸山布施」として、筆頭に円覚寺・建長寺・壽福寺・建仁寺・浄智寺の五寺があげられています
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