別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年1月9日日曜日

鶴岡八幡宮の若宮

1180年(治承4年)、鎌倉入りを果たした源頼朝は、由比郷の鶴岡若宮(現在の元八幡)を小林郷北山(現在地)に遷座します。

このときの社殿はごく簡単な造りだったと思われますが、翌年には本格的な社殿の造営に着手します。


現在の若宮

1181年(養和元年)7月3日、頼朝は、鎌倉には技術を持った工匠がいないため、武蔵国浅草の大工(字郷司)を呼ぶよう命令を下しています。

7月8日、御神体を仮殿に移すための儀式が大庭景義の担当によって行われ、大庭御厨の神館の巫女が召し出され奉仕したといいます。

そして、召し出された浅草の大工によって工事が始まりました。

7月20日には、上棟式を迎えています。

頼朝が社頭の東側の仮屋に着座すると、その南北に御家人が着座したといいます。


1181年(養和元年)8月15日、
梶原景時の奉行によって、
新しい社殿に御神体が納められました。


1182年(養和2年)、若宮参詣のための参道(若宮大路段葛)が整備され、源平池の造営も行われました。

1186年(文治2年)4月8日には、義経の愛妾静御前が若宮の回廊で舞を披露したことは有名な話です(参考:静の舞)。

また、同じ年の8月15日、奥州への東大寺勧進の旅の途中で鎌倉に立ち寄った西行と頼朝が出会ったのが若宮の前であったといわれています。

(参考:奥州を旅した西行と鎌倉


鶴岡八幡宮例祭で奉納されている流鏑馬は、このときの西行から受けた教えをもとに、翌年から開催されたものと伝えられています。

(参考:鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬




1191年(建久2年)3月4日の火災で鶴岡八幡宮は悉く焼失してしまいます。

(参考:建久2年の鎌倉大火・・・鶴岡八幡宮が灰燼と化す


しかし、すぐに再建の工事が行われ、町からの火災による被害を少しでも防ぐため、大臣山の中腹に社を建立して上宮(本宮)としました。

同時に下宮(若宮)も再建され現在のような上下両宮の形となっています(参考:鶴岡八幡宮の上宮 御鎮座記念祭)。


ビャクシン
三代将軍源実朝が宋より取り寄せたと伝えられている古木です。
鎌倉市の天然記念物に指定されています。


~現在の社殿と荏柄天神社の本殿~

現在の社殿は、1624年(寛永元年)、徳川二代将軍秀忠によって建て替えられたものです。

それまでの社殿は、荏柄天神社に移築され本殿として使用されています。

この建物は、1316年(正和5年)の建造物だと伝えられ、鎌倉に残されている唯一の鎌倉時代の建造物であり、鎌倉最古の建造物として国の重要文化財に指定されています。



鶴岡八幡宮
https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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