別冊『鎌倉手帳』




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2010年12月8日水曜日

鎌倉幕府滅亡の古戦場~山崎と上町屋の散策~

山崎と上町屋は、古くは「洲崎」と呼ばれていたところのようです。

1333年(元寇3年)、鎌倉幕府を滅ぼそうと鎌倉を攻める新田義貞軍と、鎌倉を守ろうとする鎌倉幕府最後の執権赤橋守時軍が激戦を交えたのが洲崎です。


天神下の交差点

山崎を散策するには、この交差点を起点にするとわかりやすいかもしれません。

近くには湘南モノレール「富士見町駅」があります。


妙法寺

天神下の交差点から天神山の北を進むと日蓮宗の妙法寺です。

もとは山梨県にあった寺で廃寺となっていましたが、昭和3年に日宝上人によって山崎の地に再建されました。

妙法寺の南には、戦前まで鉱泉旅館があって、「源頼朝のかくし湯」と呼ばれていたそうです。



妙法寺から天神下交差点方面に戻ります。

この庚申塔を右に曲がると北野神社(山崎天神)です。


北野神社

北野神社は、夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したといわれています。

「山崎天神」とも呼ばれ、江戸時代には洲崎神社とも呼ばれていたそうです。

背後の天神山は戦国時代の城跡です。



北野神社から東に進むと山崎の交差点です。

この辺りには、夢窓疎石によって建立された宝積寺があったといいます。

北野神社の本地仏といわれる「十一面観音」が安置されていたそうですが、現在は、昌清院に移されています。



山崎交差点のローソンの横の道を進むと、間もなく右側に「従是江のし満道」と刻まれた道標があります。

山崎天神を修理したという梅沢尋庸という人が、1811年(文化8年)に建てたものです。

この道は、江戸からの江の島詣の旅人が通った古道になります。

昔は、小袋谷から台(神明神社横)を抜けて、この道標の前を通って、山を越えて、上町屋(泉光院)・手広(青蓮院)を通って、江の島に向かったと考えられています。

参考:江の島道(手広~津~腰越~片瀬)


山崎の集会所(十王堂跡)

十王堂があった所といわれています。

この集会所の路地を入ると昌清院です。昌清院の十王像は、十王堂にあったものといわれています。


昌清院

円覚寺塔頭如意庵の末寺ということです。

北野神社に本地仏として祀られていたいう金銅の十一面観音像が安置されています。

この観音像は宝積寺(廃寺)の本尊であったとも伝えられています。

他に十王堂にあったという地蔵菩薩像、十王像、倶生神像、奪衣婆像が安置されているということです。



おとうさま



昌清院の近くにある「おとうさま」と呼ばれる塔です。

江戸時代に山崎の領主だった崇高院という人物の墓と伝えられています。

崇高院は駿河大納言忠長卿の妻ともいわれ、小袋谷の成福寺の山門を寄進した人物ともいわれています。



集会所まで戻って道を進みます。ここを右に入ると鎌倉中央公園です。



さらに進みます。

この辺りには薬師堂があったと伝えられています。

鎌倉十薬師の一つともいわれた薬師如来と、運慶作と伝えられた十二神将が安置されていたといいます。

その後、仏像は台の東渓院(廃寺)に移されたといいますが・・・

現在、光照寺にある薬師如来がこの薬師堂にあった像であるともいわれています。

光照寺の山門や釈迦如来像も東渓院のものと伝えられていますから、もしかしたらそうなのかもしれません。


薬師堂の跡を右に入るとある庚申塔です。


その先を進むと山崎小学校の校庭の脇に出ます。

そして、道を挟んで反対側が、北大路魯山人の邸宅だった「星岡窯」の跡です。

この先は、鎌倉の三大緑地の一つ「台峯」です。



~山崎から上町屋へ~

山崎の交差点まで戻って、とりあえず湘南モノレールの湘南町屋駅を目指します。
そして、湘南町屋駅の手前の坂を下って上町屋の泉光院へ向かいます。



湘南町屋駅からしばらく歩くと庚申塔があります。

この先が泉光院です。


泉光院

真言宗の寺です。

この辺りは町屋と呼ばれるくらいですから、賑やかな町だったと考えられます。

泉光院は、眼病に効く「町屋薬師」と「いぼとり地蔵」で知られています。





天満宮

泉光院のすぐ近くにある上町屋の鎮守です。

板東八平氏の祖といわれる平良文が、霊夢によって勧請した伝えられています。


庚申塔

天満宮の社殿左後方にある庚申塔は、寛文10年(1670年)の銘があるもので、鎌倉市の有形民俗文化財に指定されています。


陣出の泣塔

この小山の中に有名な「陣出の泣塔」が建っています。深沢のJR跡地です。

「泣塔」(なきとう)というのは、1356年(文和5年)の銘がある宝篋印塔のことで、洲崎の合戦(山崎合戦)での戦死者を供養した塔といわれています。

かつて、手広の青蓮寺に移されたのですが、毎晩すすり泣くような声が聞こえたので、元の場所に戻されたといいます。

そのため「泣塔」と呼ばれるようになりました。

陣出というのは、この辺りの地名です。

注意:現在、「泣塔」を自由に見ることはできません。


洲崎古戦場跡

1333年(元弘3年)、新田庄の生品神社で挙兵した新田義貞は鎌倉を攻めます。

洲崎には堀口貞満と大島守之が投入されました。

迎え撃ったのは最後の執権となった赤橋(北条)守時です。

この戦いで幕府軍は敗れ、守時以下90人が自刃したと伝えられています。








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

新田義貞の鎌倉攻め

鎌倉幕府滅亡



 山内荘と北条氏

 北条氏をめぐる鎌倉


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