別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年7月29日月曜日

鎌倉検定過去問~大倉幕府(鎌倉幕府)に関する問題~


(問)源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代に、幕府が置かれた場所とされる旧跡はどこか。

(問)大倉に居を構え、武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。


(問)源頼朝は鎌倉入りし、大倉に居を構え、幕府を開いた。その後、幕府は3代執権北条泰時により、〔 ① 〕に移され、さらに1236年(嘉禎2年)には〔 ② 〕に移された。

(問)平氏打倒の旗挙げの直後、[ ① ]の合戦に敗れた源頼朝は、海上で三浦氏と合流して、房総半島に逃れた。再度、関東の豪族を集めて勢力を立て直し、鎌倉に入り、[ ② ]に屋敷を構えた。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1180年(治承4年)8月17日、伊豆の流人だった源頼朝源氏再興の挙兵をします。

伊豆国の目代・山木兼隆を討った頼朝は相模国へと進軍しますが、石橋山の戦いに敗れ、真鶴から安房国へと渡りました。

安房国で再挙した頼朝は、10月7日、大軍を率いて鎌倉に入ります。

2日後の9日には御所の造営にとりかかりました。

選ばれたのは大倉の地。

大庭景義を奉行として進められた御所の造営は、12月12日に完了。

新造の御所に入った頼朝は、御家人311人から「鎌倉の主」に推戴されます。

鎌倉殿の誕生です。

この少し前の11月17日、和田義盛が侍所の別当に任じられています。


大倉御所は、頼朝亡き後は頼家実朝そして北条政子が主となりますが・・・

1225年(嘉禄元年)に政子が死去すると、北条泰時は御所を宇津宮辻子に移し、さらに、11年後には若宮大路に移しました。



大倉幕府跡
(大倉御所跡)

頼朝の御所は、のちに大倉幕府(鎌倉幕府)と呼ばれます。

鎌倉幕府とは鎌倉の武家政権のことで、その成立時期については様々な意見があるようですが、頼朝が幕府という語を使ったことはないようです。

武家政権=幕府とされたのは江戸時代後半のこと。

徳川家康に「江戸幕府」と言っても「何の事?」と言われてしまうのかもしれません。

参考までに・・・

鎌倉検定では武士として初めて幕府を開いた人物を源頼朝としていますが、武家政権を樹立させたのは平清盛

近年では清盛の六波羅福原も幕府であるという提唱も。




問注所は、1184年(元暦元年)10月20日に源頼朝御所内に設置された訴訟事務を所管する機関。

頼朝亡き後の1199年(建久10年)4月1日、現在の御成小学校付近に移転されました。

『吾妻鏡』によると、人々が群集し、騒ぎたて、無礼を働く者がいたため、頼朝の時代から移転が検討されていたのだといいます。

熊谷直実と久下直光の土地の境界を巡っての論争では、うまく弁解が出来ない直実が西の侍所で髷を切ったという事件が発生。

以来、御所での裁判を中止して、三善善信の家を裁判の場所としてきたのだとか。

その後、裁判を行う場所について議論が重ねられ、1199年(建久10年)4月1日に御所の外に新造されることとなったのだといいます。




鎌倉検定



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