1028年(長元元年)、関東では平忠常が反乱を起こします。
この乱を鎮圧したのが河内源氏の祖・源頼信とその嫡子・頼義。
この時代の鎌倉は、平直方が本拠としていましたが・・・
頼義の武勇に感じ入った直方は、娘を頼義に嫁がせます。
そして、鎌倉の大蔵邸を寄進したことで鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となりました。
由比若宮は、1063年(康平6年)に前九年の役を平定した源頼義が創建した社。
出征する際、頼義は源氏の氏神である石清水八幡宮に戦勝を祈願。
その願いがかなえられたことを感謝して鎌倉の由比郷に石清水八幡宮を勧請したのだといわれています。
甘縄神明神社は、源頼義が祈願して子の義家を授かったと伝えられる社。
義家は、後三年合戦後、朝廷から恩賞が出なかったため、従軍した坂東武者たちに私財から恩賞を与えて武神と称えられました。
直方の娘は、義家の他、義綱、義光を産んでいます。
義家は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」、義綱は賀茂神社で元服したので「賀茂次郎」、義光は新羅明神で元服したので「新羅三郎」と呼ばれました。
大町の八雲神社は、新羅三郎義光が兄八幡太郎義家の助勢のため奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため、京都の祇園八坂社(現在の八坂神社)の祭神を勧請したことに始まるのだといいます。
壽福寺は源義朝の鎌倉之楯の跡に建てられた寺。
義朝はここを拠点に勢力の拡大を図り、鎌倉権五郎景政が開墾した大庭御厨の支配権に介入しています。
1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は義朝の旧跡に御所を置こうと考えていたようですが、土地が狭く、岡崎義実が建てた亡き父の御堂もあったことから、大倉(大蔵)の地を選んだのだといいます。
大倉(大蔵)には先祖の頼義館があったことも理由の一つのようです。