紫式部の時代、皇統が冷泉系と円融系の2つが交互に皇位継承を行っていました。
この両統迭立の状況は、冷泉天皇が即位する前から精神的な病気だったことから始まります。
冷泉天皇は、967年(康保4年)に即位しますが、病気のため皇太子の人選を急ぐことになります。
ただ、この時、冷泉天皇には皇子がいなかったため、弟の守平親王が皇太子に立てられます。
その後、冷泉天皇に皇子が誕生(師貞親王)。
969年(安和2年)、冷泉天皇は守平親王に譲位し、円融天皇が誕生します。
しかし、冷泉天皇は譲位するに当たって師貞親王を皇太子とするよう命じていました。
984年(永観2年)、円融天皇は師貞親王に譲位し、花山天皇が誕生。
皇太子には、藤原詮子が生んだ懐仁親王が立てられます。
986年(寛和2年)、花山天皇の出家(寛和の変)に伴なって懐仁親王が即位して一条天皇が誕生(7歳)。
しかし、7歳の一条天皇に皇子がいるわけがなく、花山天皇にも皇子がいませんでした。
そのため、冷泉天皇の皇子・居貞親王(花山天皇の弟、のちの三条天皇)が皇太子となり、両統迭立の状況となっています。
平安時代の即位の礼は、原則として平安宮朝堂院の大極殿で行われていました。
しかし、冷泉天皇は病気だったため内裏の紫宸殿で即位しています。
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