986年( 寛和2年)6月23日、花山天皇が元慶寺で出家するという事件が発生(寛和の変)。
事件の首謀者は右大臣・藤原兼家。
長男の道隆・次男の道綱・三男の道兼、そして僧の厳久も関与しています。
平安時代の歴史書『扶桑略記』によると
道兼と厳久が花山天皇を大内裏から退出させます。
同時に道綱が神璽と宝剣を東宮に渡します。
そして、兼家が参内して諸門を固めさせ、践祚を強行しています。
慈円の『愚管抄』によると、
道兼と厳久が縫殿から花山天皇を大内裏から退出させます。
急な事にためらう花山天皇に神璽と宝剣が東宮へ渡っていることを告げて、道隆と道綱が神璽と宝剣を東宮の擬花舎に運びます。
そして、兼家が参内して諸門を固めさせ、五男の道長を関白・藤原頼忠のもとに遣わして政変の成就を伝えたのだといいます。
道兼と厳久に連れられた花山天皇は元慶寺で剃髪。
一条天皇が即して兼家は摂政となっています。