(第10回鎌倉検定試験1級)
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栄西は、我が国臨済宗の開祖。
二度にわたって中国の宋で学び、臨済禅を修めました。
それまで上流階級に限られていた喫茶の習慣を一般社会に伝えたのもの栄西です。
栄西は宋から帰国後、京都で禅を広めようとしますが、比叡山からの迫害に遭い、1199年(正治元年)頃、鎌倉に下ってきました。
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~茶と栄西と宇治茶の始まり~
栄西は、宋から茶の種を持ち帰り、それを筑前の霊仙寺に蒔いて茶を栽培しました。
その種がいつ持ち帰られたものなのかは判りませんが、おそらく2回目の渡宋から帰国した1191年(建久2年)のことと考えられているようです。
霊仙寺に蒔かれ茶は、「岩上茶」の起こりとなったと伝えられています。
また、栄西は5粒の種を栂尾の高山寺の明恵に譲っています。
明恵は、それを高山寺の境内に蒔き、宇治に移植して茶の栽培を行ったといいます。
これが「宇治茶」の起こりと伝えられています。
栂尾の高山寺は、華厳宗の僧・明恵が中興した寺(世界文化遺産)。
明恵は、栄西からもらった茶の種を山内に植えました。
そして、茶を育成します。
(高山寺)
栂尾で育成された茶の木は、宇治へ移植されます。
宇治市にある萬福寺は、禅宗の一つ黄檗宗の大本山。
中国明朝風の伽藍が並ぶ寺です。
山門前には「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」という句碑があります。
(萬福寺)
そして総門の前にあるのが「駒蹄影園(こまのあしかげえん)址」の碑。
高山寺の明恵は、この辺りに栂尾で育てた茶を移植させたといいます。
伝説による、明恵から茶の木を与えられた里人でしたが、それをどのような間隔で植えたらよいのかわかりません。
すると、明恵が畑に馬を乗り入れ、馬の蹄の跡に植えるよう指示したといいます。
碑には「栂山の尾上の茶の木分け植えてあとぞ生ふべし駒の足影」と刻まれています。
そして、この移植が宇治茶の始まりとなりました。
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源実朝に献上された
『喫茶養生記』
『喫茶養生記』
『喫茶養生記』は、源実朝に献上されたという我が国最古の茶書。
上下二巻からなる書籍で、上巻は茶について、下巻は桑について、その名称、効用、使用法、製法などが述べられています。
国の重要文化財に指定されています。
『吾妻鏡』によると、1214年(建保2年)2月4日、二日酔いで苦しむ源実朝に、栄西は一服の茶とともに「茶徳を誉むるところの書」としての『喫茶養生記』を献上したといいます。
壽福寺には、『喫茶養生記』の古写本が伝わっていますが、現在は、鎌倉国宝館に寄託されています。
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~建仁寺の茶碑と桑の碑~
京五山第三位の建仁寺は、栄西が開いた寺。
建仁寺にも栄西の作った茶園があったそうです。
栄西は、桑の効用について、
病には5種の相あり
一に飲水病
二に中風
三に不食
三に瘡病
五に脚気。
これらの諸病を治する妙薬は「桑」であり、服すれば長寿無病を得られる。
諸病を治するには、仏教に順じた生活をすることが肝要であるが、桑樹は妙薬であり諸仏菩薩の樹である
と説いています。
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~鎌倉と栄西~
『吾妻鏡』によれば・・・
源頼朝が亡くなった年の1199年(正治元年)9月26日、幕府は不動明王像の供養を行っています。
このときの導師が栄西であることが記されていますので、栄西は、これ以前に鎌倉にやってきて活躍の場としていたのでしょう。
以下、『吾妻鏡』に記録された栄西の活動記録です。
1200年(正治2年)正月13日、源頼朝の一周忌に導師を勤める(法華堂)。
1200年(正治2年)閏2月13日、北条政子が創建した壽福寺の開山に迎えられる。
1200年(正治2年)7月15日、北条政子が京で描かせた十六羅漢図の供養の導師を勤める(壽福寺)。
1202年(建仁2年)3月14日、永福寺の多宝塔の供養の導師を勤める。
1203年(建仁3年)9月2日、北条時政邸の薬師如来供養の導師を勤める。
※このとき北条時政は比企能員を誘き出し暗殺している(比企氏の乱)。
1204年(元久元年)12月18日、北条政子が南都で描かせた七観音図の供養の導師を勤める(壽福寺)。
1205年(元久2年)5月25日、御所で行われた五字文殊菩薩の供養の導師を勤める。
1211年(建暦元年)10月19日、宋本一切経五千余巻の供養の導師を勤める(永福寺)。
1211年(建暦元年)10月22日、伊賀朝光が永福寺傍らに建てた一宇の供養の導師を勤める。
1211年(建暦元年)12月25日、源実朝の持仏堂での文殊供養の導師を勤める。
1214年(建保2年)2月4日、二日酔いの源実朝に『喫茶養生記』を献じる。
1214年(建保2年)6月3日、祈雨のための法華経を転読。
1214年(建保2年)7月27日、大慈寺の供養の導師を勤める。
1214年(建保2年)10月15日、大慈寺で仏舎利を供養するための法会を始行。
1215年(建保3年)7月5日、入滅。
このように数多くの供養・修法を行った栄西ですが、ほとんどが密教的行法であったといわれています。
京都で臨済禅を広めようとして迫害され、鎌倉に下ってきた栄西ですが、鎌倉においても禅僧として迎えられたというより祈祷僧として北条政子や二代将軍源頼家の帰依を受けていたようです。
この間、京都と鎌倉を往復し、1202年(建仁2年)には、源頼家の外護によって京都に建仁寺を創建し、1206年(建永元年)には重源の跡を継いで東大寺大勧進となっています。
東大寺の国宝梵鐘が吊されている鐘楼は、栄西の再建です。
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鎌倉との繋がりを求めて。