(第9回鎌倉検定2級)
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源頼朝が畠山重忠に命じて建立させたという佐助稲荷神社。
伝説によると・・・
源頼朝が、まだ伊豆国の蛭ヶ小島の流人だった頃、病に臥していた頼朝の夢枕に白髯の老人が現れます。
そして、
「汝は平家を討つ天命を負うものである。早急に挙兵して天下を統一すべし。」
と告げ、
頼朝の問いかけには、
「鎌倉隠里(かくれさと)の稲荷大明神」
と名乗って姿を消したのだといいます。
1180年(治承4年)、夢のお告げによって挙兵した頼朝は、それから50日ほどで鎌倉入りを果たします。
1185年(元暦2年)には壇ノ浦で平家を滅ぼし、大倉の御所に武家政権の府を誕生させます。
そして、西方の霊地に祠が発見されると、畠山重忠に命じて社を造らせました。
(創建年ははっきりしませんが、建久年間(1190~99)のことといわれています。)
それが、現在の佐助稲荷神社だと伝えられています。
1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、翌年、伊豆国の蛭ヶ小島に流された源頼朝は、尾張国野間で暗殺された父義朝の菩提を弔いながら、約20年間を伊豆国で過ごしました。
流人時代の頼朝は、「佐殿」(すけどの)と呼ばれていました。
初陣を果たした平治の乱で、一時、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任ぜられたためです。
すぐに平清盛に敗れて解官されてしまいますが、伊豆では「佐殿」と呼ばれ続けていたようです。
佐助稲荷神社の「佐助」という名には、「佐殿を助けた」という意味があるのだとか・・・
(創建年ははっきりしませんが、建久年間(1190~99)のことといわれています。)
それが、現在の佐助稲荷神社だと伝えられています。
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1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、翌年、伊豆国の蛭ヶ小島に流された源頼朝は、尾張国野間で暗殺された父義朝の菩提を弔いながら、約20年間を伊豆国で過ごしました。
流人時代の頼朝は、「佐殿」(すけどの)と呼ばれていました。
初陣を果たした平治の乱で、一時、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任ぜられたためです。
すぐに平清盛に敗れて解官されてしまいますが、伊豆では「佐殿」と呼ばれ続けていたようです。
佐助稲荷神社の「佐助」という名には、「佐殿を助けた」という意味があるのだとか・・・
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