別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2019年8月21日水曜日

源頼朝が蛭ヶ小島で見た夢~隠れ里伝説:鎌倉検定~

伊豆で蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の夢枕に、「かくれ里の稲荷」という神霊が立ち、挙兵を勧めた。頼朝はこの託宣に従い挙兵、戦いに勝利したという。のちに、この「かくれ里」の地で祠を見つけた頼朝は、だれに命じて社(後の佐助稲荷神社)を建てさせたか。

(第9回鎌倉検定2級)


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佐助稲荷神社

源頼朝畠山重忠に命じて建立させたという佐助稲荷神社


伝説によると・・・

源頼朝が、まだ伊豆国蛭ヶ小島の流人だった頃、病に臥していた頼朝の夢枕に白髯の老人が現れます。

そして、

「汝は平家を討つ天命を負うものである。早急に挙兵して天下を統一すべし。」

と告げ、

頼朝の問いかけには、

「鎌倉隠里(かくれさと)の稲荷大明神」

と名乗って姿を消したのだといいます。


1180年(治承4年)、夢のお告げによって挙兵した頼朝は、それから50日ほどで鎌倉入りを果たします。

1185年(元暦2年)には壇ノ浦で平家を滅ぼし、大倉の御所に武家政権の府を誕生させます。

そして、西方の霊地に祠が発見されると、畠山重忠に命じて社を造らせました。

(創建年ははっきりしませんが、建久年間(1190~99)のことといわれています。)

それが、現在の佐助稲荷神社だと伝えられています。


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1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れ、翌年、伊豆国蛭ヶ小島に流された源頼朝は、尾張国野間で暗殺された父義朝の菩提を弔いながら、約20年間を伊豆国で過ごしました。

流人時代の頼朝は、「佐殿」(すけどの)と呼ばれていました。

初陣を果たした平治の乱で、一時、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任ぜられたためです。

すぐに平清盛に敗れて解官されてしまいますが、伊豆では「佐殿」と呼ばれ続けていたようです。

佐助稲荷神社の「佐助」という名には、「佐殿を助けた」という意味があるのだとか・・・



佐助稲荷神社


鎌倉検定






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