1181年(治承5年)閏2月4日、我が国初の武家政権を樹立した平清盛が亡くなりました。
清盛が亡くなる前年の1180年(治承4年)は、以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発し、源頼朝をはじめとする源氏が各地で挙兵した年でした。
★源頼朝の挙兵
そんな平家打倒の気運に併せて、延暦寺や園城寺、南都の東大寺、興福寺などの勢力も活発な動きを見せ始めます。
10月の富士川の戦いでは平維盛が敗走し、12月の南都討伐では、平重衡が南都を焼き払い、寺院勢力と貴族を完全に敵に回してしまいます(南都焼討)。
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そうした情勢の中、何とか事態を切り開こうとする清盛は、平宗盛を大将として東国へ大軍を派遣することを決定します。
しかし、1181年(治承5年)2月27日、清盛は熱病にかかり、明くる28日には重体に陥ります。
京都の人々は「悪行の報いが来たぞ」とささやいたといいます。
平清盛
(京都:六波羅蜜寺蔵)
『平家物語』によると、その病状はもの凄いものです・・・
水も喉をとおらず、体が火を焚いたように熱く、清盛の近くによるとその熱さに耐えられない。
清盛は、ただ「熱い熱い、痛い痛い」と言うばかり。
比叡山より千手井の水を汲み出して石の湯船に入れ、その中に入ると、水が沸き上がって湯になった。
筧の水をかければ、まるで石か鉄などが焼けたように水がほとばしって寄りつかず、たまに当たった水は炎となって燃え上がり黒煙が殿中に充ち充ちた。
というもので、まるで地獄絵の世界です。
清盛の妻時子も地獄から獄卒が迎えに来る夢を見たといいます。
その時子は、病臥4日目の閏2月2日、もう絶望と思い、熱さに耐えながら清盛の枕元に寄り、遺言を求めます。
すると清盛は・・・
「今生の望み、一事も思い置く事はない。
ただ、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見ることができないのが不本意。
我が死んだ後は、供養塔もたてず、仏事法要も行わなくてよい。
直ちに討手を差し向け、頼朝の首を刎ねて、我が墓の前に供えるべし。
これぞ今生の供養である」
と言ったといいます。
そして閏2月4日、板に水を注いで、その上に寝ころばせますが・・・
もがき、息絶え、地に倒れ、遂には、身もだえして跳ね回って最期を遂げたということです。
『平家物語』は、「あつち死に」と表現しています。
清盛は熱におかされて死んだので、「あつち」が「熱」と関係ありそうに感じますが、「あつち」は跳ね回るという意味なのだそうです。
いずれにしても『平家物語』の中の清盛の死はもの凄いものです。
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鎌倉との繋がりを求めて。
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